第3回英文輪読12月26日



鈴木 横山 川崎

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'鈴木'訳

ルネサンス(およそ1450-1600年)
“理論は将校、実践は兵卒.”レオナルドダヴィンチ

7.1序論
 前章までに記したトライボロジーの発展についての情報は急速に拡大し,最も価値のある歴史的な資料の中世の終わりの印刷物ではなく,本質的に貴重なその当時の写本など考古学的な証拠に基づいている.それどころかこの章で初めて我々のストーリーの完全な基礎を形成する.これは考古学の資料の否定を暗示しているのではない,人工物(人工の遺産)は後の期間と関係して参照されるのだから.しかしルネサンス期の文献の価値は比較的少数その時代の重要なトライボロジーの装置(工夫,図案)の遺跡によって高められている.
 印刷技術は最初に11世紀中国で,遅れて15世紀半ばにヨーロッパで開発された.およそ1450年の活版印刷の重大さが発揮されたのは結果として従来は不可能だった規模の発明のアイデアや記事の普及を伴う比較的安価な書籍大量の複写の作成においてである.5章で言及したウィトルウィウスの『De Architectura』は15世紀後半に印刷された.『De Architectura』は15世紀後半に800万冊印刷されたと推定されている.Davison(1958)は最初の工学の活字本として知られている.これは1472年のヴェローナ(イタリアの都市)の様々なタイプの軍用機械や油圧機器について書かれている.同時にBernal(1954)は16世紀の大きな科学的,技術的変化に対する活版印刷の重要性を強調している.
 読み書きができることが技術者たちにとって必須のものとなった.そしてこれが機械科学の発展に重要な職人と学者を結びつける機会となった.
 ルネサンスはしばしば美化される文化古代ギリシャやローマの芸術,建築,学問の復活だけではない.中世の間,科学的方法を発展させた知力の革命の時代はだんだんと当時の課題に適用された.中世における機械動力(始めのうちは水車に基づいており15世紀に風車が追加されたのだが)の使用の増加は,両立しないものだが封建制度の経済体制のなかに貿易や陸上と海上の交通,製造や流通の製品に対する世間の関心の発展と共に生まれた.大商人家は貿易会社から発展していく一方,更なる発展のために資本を経済に供給する銀行家や産業の資本家になった.例えば資本主義は封建制度の経済体制に置き換わり速やかにヨーロッパに広がったが,決して痛みのない過程ではなかった.商人家の銀行による市場介入はルネサンス期の産業発展の重要な因子になった.
 15世紀の終わりと16世紀初期は大航海時代だった.1492年ジェノバの探検家Christopher ColombusはスペインのFerdinandとIsabelllaの支援を受け,歴史的旅に西へと出発した.1498年に3回目の旅で彼は南アメリカのオリノコ川の河口に上陸した.そして10月12日はアメリカや西インド諸島,南アメリカの多くの地域で現在公式にコロンブスデーとして認識されている.新大陸の発見に先立ちトライボロジーの発展の過程の要約は他のところで著者によって述べられた.(Dowson,1973)
 インド洋への南のルートは1488年にポルトガル人の探検家Vasco da Gamaによって発見され,1497年に喜望峰を回りインドに到達した.同じ年にベネチア人でイングランドで活躍した冒険家John Cabotはラブラドル半島(カナダ)を発見した.一方最初の地球周航(1519-22)はFernando de Magallanes (Magellan)によって開始されたが達成されなかった.これらの活発な航海は私たちのその時代のイメージに栄誉を加える.そしてこれらの航海はその時代のニーズを満たすために,すぐに発見と貿易に対する新たな興味と一緒に科学技術の可能性を暗示する.
 航行案内人の必要性は航海術と天文学の研究に別の重要性を提供した.すぐにCopernicus (1473-1543)は私たちのすぐそばの天の隣人の回転の中心を地球から太陽へ移動することでAristotelisの宇宙の考えを崩壊させた.一方,Padua大学の物理学と軍事工学の教授のGalileo Galilei(1564-1642)はすぐに地動説を確かめるのに重要な役割を果たす望遠鏡(1600年)を発明した.
 しかしこの時代の何がトライボロジーに影響をあたえたのか.そもそもトライボロジーはたいていの理解力を超越した天才の思いつきから恩恵を受けた.12枚の絵しか確かに彼に起因するといえないが,Leonardo da Vinci'sのルネサンスにおける直接の貢献は疑いなく芸術である.ナポレオンが1796年5月19日にすばらしい芸術コレクションをフランスに移すための命令を発令するまでエンジニアや科学者としての彼の役割は広く認識されていなかった.その結果その手稿はレオナルドの死から約278年後J. B. Venturiによって説明された.したがって,レオナルドの芸術作品は科学的な事柄に関する彼のノートが個人のコレクションや図書館に格納されていた比較的最近までの500年以上の間,一般に利用されてきた.ベアリングや摩擦,摩耗についての研究のスケッチや記述の記録を含む価値あるノートは1967年にマドリードで発見された.さらに詳しいレオナルドのノートの歴史についての説明は付録 (Sect. A.2)に記す.
 レオナルドの特に機械科学やトライボロジーに対する貢献への評価はずっと昔からの単独の証拠によるものではない.更なる原稿が見つかるかもしれないという認識がある間,現在の研究と最近の発見に注意を払わなければならない.レオナルドを実在した最高の芸術家で補助的に科学や工学に興味を持っていたととらえる人もいる一方,彼を当時の科学の能力を超越した構想(展望)を持ったエンジニア,科学者であり,生計を立てるために芸術家として働く必要があったと考える人もいる.後者はレオナルドの記述,図,スケッチが科学や工学の話題に割く圧倒的な割合に焦点をあてている,前者は彼が画家として教育された点を主張する.しかし彼の同時代の人たちの彼に対する認識はエンジニアであり,芸術家であったことは明らかである.フランスの埋葬許可証は彼のことをこう言い表している
 Lionard de Vincy, noble millanois, premier peinctre et ingenieur et architecte du Roy, mescanichien d'Estat, et ancien directeur du peincture du Due de Milan.
議論されるだろう.ルネサンス期の工学の事柄についてのレオナルドの記述の限定された利用可能性について論ずるべきだが,この章で彼の業績について十分な考察をするのは自重する.レオナルドによる本の出版が与えた影響を考えることは本当に興味深い.そしてそれはルネサンス期の工学の発展であったでしょう.しかしながらこのような推論はトライボロジーにおけるレオナルドの功績の判断と彼の発見の多くの優先権の配分を遅らせてしまう.その当時の悲劇はあまり多くはないがレオナルドの発見や研究成果を繰り返さなければならなかったことである.(その多くは数百年後であるが.)しかし彼と同時代の人は彼の天才の恩恵を受けることができなかった.
 様々な角度からのトライボロジーについてのレオナルドの科学的な研究はこの章の冒頭部分の主題を形成する.一方,次の節は当時の文献の様々な形の形跡を基にベアリングの発展についての議論に充てる.その期間は様々な貿易や産業の初期の書籍に十分に恵まれている.そしてそれはベアリングの発展の知識も豊富にする.多くのテキストは豊富なイラストがあり図形の慎重な研究からその当時のトライボロジーの実験をたくさん集められている.大切な進展は中世から17世紀の間の機関のすべり軸受けと転がり軸受けの発展によってもたらされたと考えられる.

7.2 Leonardo da Vinciのトライボロジー研究
 レオナルドの科学,哲学,芸術への貢献に関する評価がどのようなものであれ,かれの才能の及んだ範囲とその思想を理解すれば,彼の評価に関する議論は重要ではなくなるだろう.ノートとスケッチの形で残されいるレオナルドの手稿は5000ページにも及び,彼が情熱を注いだ様々な分野のどれ一つをとっても,その業績は永遠の賞賛に値する.この節は付録(Sect.A.2)のレオナルドの人生の記事と関連付けて読むべきである.
 レオナルドのトライボロジーの分野における業績はそれほど世に知られていないが,彼自身は摩擦の科学的研究,軸受材料の開発,摩耗の研究および転がり軸受の独創的な設計にも力を注いだ.この分野に対する彼の貢献だけでも精選の処置を講ずる必要がある.
 トライボロジーに関してレオナルドが残した文書とスケッチの大部分は,十九世紀末に出版されたアトランティコ手稿,1967年にマドリードで発見されたマドリード手稿,現在は大英博物館に所蔵され量は少ないが重要なアランデル手稿の中にそれぞれ存在する.手稿の原稿は様々な人に所有され,その後博物館が所有し,出版されるか,まだ発見されていないという事実は現在でも彼の偉大さを疑いのないものにしている.彼の著述は何世紀もの間事実上世間に知られなかったため,後の科学界での認知は大きな衝撃を与えた.近年,レオナルドの貢献に対する再評価と彼のノートに彼自身の業績の他にどの程度当時の一般の知識が反映されているかという議論を様々な人が発表している.この議論は当面続くであろう.しかしトライボロジーにおけるレオナルドの貢献の評価は彼の天才さが現実的な問題に対する機械的原理の応用の考察で最も発揮されているという意見で今まで以上に高まっている.レオナルドの手稿の詳細や歴史についてはRtchter(1883)やMacCurdy (1938),Richter (1952)によって述べられている.またレオナルドについての理解しやすく,きれいなイラストが載っている本がLord Riltchie-Calder (1970)によって出版されている.

摩擦
レオナルドの摩擦の研究はルネサンス期の科学革命すばらしい証明になった.それはとても興味深い研究結果だけでなく,発見のために採用した科学的方法もである.なにがレオナルドを摩擦の研究に駆りたたせたのだろうか.機械と機械要素の基本的な機能を解析する能力に加え,機械に多様な機能を持たせたいという意図が働いて,摩擦の正しい認識が導き出されたに間違いない.事実,彼はスクリュージャッキと歯車の性能に関して,摩擦の役割にとても関心を持っていた.機械の詳細な設計を開始する前に,まず摩擦の研究を行うという態度を一貫してとっていた.彼は徹底した実験によって「理論」は支え,補強されることで構築する重要性を絶えず強調した.彼の摩擦の研究は当時は奇抜であったが現在では一般的な科学的アプローチである.
 一方,彼がかいた画家として教訓は「学識なくして実践に打ち込むものは,舵や羅針盤なしで航海をする船乗りのようなもので,どこにいるのか分からない.実践は常に正しい理論的な知識に基づかなくてはならない.」
 科学的実験方法の重要性にたった彼の哲学はこの章最初の言葉に集約されている.
 レオナルドの摩擦の研究の意義を評価するに当たって重要な点は,およそ2000年前にAristotleによって摩擦力が認識されそして多くの古代文明においても,その作用を最小化する試みが無数になされたにも関わらず,彼の著述が摩擦の定量オ的な研究を記した最初の記録であったという事実である.彼の実験手法はおよそ3世紀のCharles-Augustin de Coulombと基本的に同一であって,現在も,実験室的研究の基本となっている.
 図7.1のアトランティコ手稿のスケッチには,水平面と斜面の両方における物体間の摩擦力を測定したレオナルドの測定方法が示されている.物体に結ばれた紐はころまたは滑車を解して抵抗力をそぅていするおもりにつながれている.半円断面溝あるいは部分軸受上にセットされたころのトルクも同じ方法で測定されている.図7.1(b)の最も興味深い点は,摩擦抵抗に及ぼす見かけの接触面積の影響に関するレオナルドの研究内容が明確に表されているところにある.
 レオナルドのノートのいくつかには,こうした実験から導き出された洞察が記述されている.彼は転がり摩擦とすべり摩擦の違い,及び潤滑剤の効用もすでに理解していた.

摩擦現象は単純なものとその他の複雑なものに分けられる.単純なものは物体が邪魔するものがない平滑な面を引きずられる場合である.これはパワフルな場合,単独で火をおこす.これが火おこしである.この現象は鋭くとがった鉄と車の間の水が取り除かれたときに水車で見られる.
 その他のものは複合的で二つの部分に分けられる.一つは何か油気のものや何か薄いものが間にあり一緒にこすられる場合である.もう一つは車輪の軸の摩擦のように間に他の摩擦が入る場合である.一つ目はさらに二つに分けられる.その名のとおり,油が介入する場合と球との摩擦である.(Forster Bequest Ms. II, 131v)

 彼の記述からレオナルドが回転の現象の結果から油をさすことで摩擦を減らすことを観察することを考えたと思われる.
摩擦面の間に挿入されるどんなものでもたとえ薄くても全てのものはこの摩擦の難しさを軽減する.
 高荷重の摩擦を観察しなさい,私が他で記したように,この現象は間の車輪が大きければ大きいほど簡単に起きる.そして逆に介入するものが油を塗ったような薄いものほど難しくなる.そして雑穀のようなより増えるものはより良く簡単である.そしてそれが木製の球やころだとより良い.それは円筒のような車輪である.それらのころはより簡単に動かせるようになる.(Forster Bequest Ms. II, 132v)

 摩擦に及ぼすみかけの接触面積と垂直荷重の影響について,レオナルドは次のように記している.「接触面の幅や長さが異なっても,同一の荷重による摩擦に起因する起動時のt抵抗は同一のものとなる」(Forster Bequest ms. II, 133r and 132v)そして「荷重が二倍になれば摩擦により発生する力も二倍になる.(Forster Bequest Ms. II, 72r)
 レオナルドが摩擦に関する「力」についていっさい論じていないことに注目したい.力が関係する現象は,日常生活においても明らかに認められるが,ルネサンスの数学者,技術者はそれを十分に理解して定義することはなかった.この状況は200年ごにIsaac Newtonによって解明される.レオナルドはかなり詳細に力の本質を論じているが彼が用いた「フォンツァ(forza)」という言葉は,ある抵抗に対して物体の速度を一定に保つものという概念に結びつくように思われる.したがってそれは現在のエネルギーあるいは仕事という考え方に近い.
 こうした観察結果は,摩擦の最も重要な二つの法則に完全に一致している.つまり
1.摩擦力は加えられた荷重に比例する.
2.摩擦力は見かけの接触面積に依存しない.

 この普遍的な原則は通常「アモントン(Amontons)の摩擦の法則」(第8章参照)といわれているが,この法則がレオナルドによって見いだされたといっても公平をしっすることにはならない.レオナルドの記述はそれほど包括的ではないが,やはり最初に記録された摩擦の科学的研究の成果であるとともに,摩擦現象を支配する法則に関する科学史における最小の記述である.今後,我々が「アモントン-ダ・ヴィンチの法則」と呼ぶことにしても公正を欠くものではないだろう.
  レオナルドのすばらしい洞察力をもって,最初に摩擦係数の概念を,垂直荷重に対する摩擦力の火「μ=F/P」として導入した.また,摩擦抵抗は接触面の性状に依存すること,表面が滑らかな物体の摩擦は小さくなることを観察している.「磨かれて滑らかな表面では,あらゆる摩擦物体において摩擦抵抗はその荷重の四分の一に等しい」と結論づけている.この後の方の結論は正確ではないが,二つの意味で興味深い.まず,全ての材料において摩擦係数が一定であるという結論が,これとはまったく無関係に1699年にGuillaume Amontonsによって導き出されたこと,第二にμ=0.25という数値は中世末期とルネサンス初期において一般的に使用されていた軸受材料に関してはきわめて現実的な値であったことである.当時の軸受はほとんど木-木または木-金属の組合せであり,この場合,ぬれているときの摩擦係数をBowdenとTaborが0.2としている(1964年)ことに注目したい.無潤滑状態についてはBowdenとTaborはそれぞれ0.25〜0.50と0.20〜0.60という値を提示している.これらの数値を考えると,レオナルドの実験は正確であって,摩擦係数は一定であるという彼の発見はきわめて妥当であることがわかる.
 私たちはレオナルドの摩擦の研究はその時代の課題に対する科学的研究法による適用に基づいていたことが分かった.彼は実験を考え,時の試練に耐え,結論に達し発見を概ね記録した様に思われる.この研究が我々の知らない永久機関に起因したまたはそれが彼の考えを刺激したであろうとなかろうと,彼は後の方の結論に関するはっきりとした見解を持っていた.マドリード手稿の最初のページに彼はこう記している
人の余計で不可能な妄想の間に,連続運動の模索がある,永久運動ホイールと呼ぶ.何世紀もの間油圧機械や戦争のためのエンジン,それに類似したものの研究に従事した人たちはこの研究と実験に長い時間を捧げ,大きな出費も招いた.常に同じことが錬金術師に対しても起きました.小さなことのために多くのものを失いました.研究者たちがは国王や支配者との約束のために,もう逃げる必要がなくなるように,私の少しの研究が彼らの助けになるだろう.私はたくさんの人を覚えている,すばらしい希望を持ってVeniceに来た異なる国からの人々,静水(淀,流れのない)で製粉するための研究,多くの出費と努力の後,機械を動かすことができず,彼らは逃げなくてはならなかった.

一方,フォスター手稿はより短いが,より最終的な解説を含んでいる.
「あなたはその探求ごっこでいくつの無駄な妄想をしたか.金を追求するものは去れ.」

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'間'訳

摩耗

レティ(1971)は軸受の摩耗現象もマドリード手稿の中でレオナルドによって初めて指摘されたと記している.この軸受の摩耗についての多くの観察結果は図7.2に示されるスケッチに加えて,文字でも記録されています.
軸受内の摩耗の総量は作用する荷重の大きさに依存し,水平軸の回転によって生じる摩耗の溝は,かならずしも垂直方向に限定されず,静的な合成荷重のベクトルの方向に形成されるとレオナルドは考えた.この見解は現在多くの摩耗機構に関して確認され,アーチャードの摩耗の法則(1953年)にまとめられている.
図7.2(c)に示される3番目のスケッチでレオナルドの卓越した観察力が十二分にうかがわれる.ここには軸受内の摩耗による溝の成長が描かれている.軸も軸受も摩耗の影響を受けるため,摩耗の進展に伴い軸径は徐々に小さくなっていく.そしてこの小さなスケッチに示されているように,摩耗による溝は円錐形状になってしまう.「原因なくして結果の生じることはない.原因分かれば実験する必要はない」(アトランティコ手稿)
16世紀にスペインの給水設備で使われる複雑な機械の記録でレティ(1971)はトライボロジーの経済的な重要性について早くに興味を持ったと示している.その証拠はSimancas Archives の参照の“機械と修理に必要な連続軸受”からくる.
メンテナンスのために使われている大きな出費の2つのアイテムは“潤滑のための動物性脂肪と壊れるまたは擦り減った機械要素を修理するために絶えず操作されなければならなかった鉄工所のための炭”と記録されている.潤滑のために使われる動物性脂肪のコストがばかにできずこの懸念で16世紀の機械で軸受にかけられるコストが過度になったと思われる.マドリードのBiblioteca NacionalでJuanelo Turrianoは建築家,数学者,機械技師,銀細工師,鍛冶屋,木彫師などとして描かれている能力の高い男であった.彼は1500年イタリアのクレモナで約1530年のチャールズ五世の帝国の家庭に入った時計技師であるジョヴァンニトリアーニの下に生まれた.彼はチャールズと後の息子ヒィリップ2世と1545年の後Juanelo Turrianoとして建てられたイタリアとスペインで40年間数回交流し続けた.
彼は時計技師としてとても良い技術を示したが,最も大きな貢献をしたのは水力工学の分野である.彼はトレド(1569)の上記の給水設備“artificio”の建設の代表者である.Juaneloの多くの価値ある原稿はレティによって(1967c,1967b,1968)発表された.

軸受の素材
レオナルドは銅とスズを3対7で溶かした合金が低摩擦化の発展をもたらすという最も重要な指標をマドリード手稿で示した.彼はスプリットブッシュジャーナル軸受の進歩的なデザインを扱う部分でこの徹底した軸受材料について言及した.(リッチ・コールダー卿(1970)とレティ(1971))
レオナルドの流暢な「mirror metal」もしくは「mother」仕様書にはそれがすでにフック(1684)の発表と1839年のアイザック・バビットの発明の後の数世紀内で予測していたと書かれていた.しかし,レオナルドのこの発明の優先権の割り当て問題は簡単なものではない.彼は受け入れられたものもしくは新しい時代の工業実地について簡潔に記した.だが,ルネッサンス末期の前後の材料について言及する人が現れなくなってから何世紀もの間,この発明は彼のものとなり事実上おとろえることになった.重要なことは低摩擦軸受材料の概念はルネッサンス時代初期にしっかりと位置づけられるべきであるということである

軸受
レオナルドは摩擦と摩耗の基本的な研究を行い,低摩擦を示す軸受材料についても記している.これらが初期の軸受の基礎的な研究を行う上での適切な背景となった.この分野において,理論面での深い洞察力と実行面での非凡な才能をいかに効果的にレオナルドが結びつけたかはレオナルドの示した内容を中世後期または初期ルネサンスの技術の背景の中で位置付けてみればすぐに理解できる.その当時の軸受のほとんどは,硬い木材同士の組み合わせから成り立っていたが,わずかな例外として機械を低摩擦で支持するという観点から,鉄と硬い木材,さらにごく少数ではあるが鋼と鉄または鉄と青銅の組み合わせもあった.
すべりよりも転がりのほうが有効であったことは,初期ルネサンス期の工業においても知られていた.軽荷重の場合には,図7.3(a)で示すように,軸を二つの木製の円盤の上に組み込むアイデアが採用された.このアイデアは長い間レオナルドの発案とされてきたが,マドリード手稿の発見(1967)によって,レオナルドは助手のジュリオというドイツ人の機械工を通じて,ドイツにおける「ころと円盤」を使った軸受の存在を知ったことが明らかにされている.もっとも,レティによれば(1971),図7.3(b)に示す三つの円盤を使った支持機構はレオナルドのアイデアである.レオナルドのころと円盤を使用した軸受の多数のスケッチは図7.3(c)と7.4で示される.これを見れば,レオナルドがこのアイデアに随分魅力を感じていたことがうかがわれる.さらにその上,現在でも実際に使える装置にまで概念を大幅に拡張している.
軸がわずかな角度で揺動運動を行うとき,完全な円盤である必要はない.レオナルドは,図7.4に示すような扇上の支持を表すピポッドアーム軸受のスケッチをいくつも描いている.こうした軸受は円盤の組合せよりもはるかに複雑になっているものの,機械設計に大幅に取り入れられたものと考えられる.その良い例が釣鐘の支持装置であり,図7.5に示すものが200年以上後に製作されている.低摩擦の転がり支持を得るために,いろいろな工夫がこらされていることが分かる.
マドリード手稿の次の文章を読めば,低摩擦の支持機構に対して,真の転がり運動がもっている潜在的な機能をレオナルドが完全に認識していたことが明らかである.「平らな面を持つ重量物を同様な面の上で運動させるとき,その間に玉またはころをはさめば,運動が容易になることは間違いない.また,玉が自在に運動するのに対して,ころが一方向にしか運動できないことを除けば,玉ところの間にはいかなる相違も存在しない.しかしながら,運動中に複数の玉やころが互いに接触すれば,接触しないときに比べて運動はしにくくなる.なぜなら,接触は逆方向の運動によって生じ,その際に摩擦が玉やころの回転を妨げる方向に働くからである.しかしながら,そういった玉やころを互いに離すようにすれば,重量物とそれを支える物体の間にある玉やころはただ一点で接触するようになる.その結果,運動が容易になる.」
これを読めば,転がり軸受に関する概念が,第5章で説明した初期のギリシャ人,ローマ人,ケルト人,中国人のレベルをはるかに凌駕していることが分かる.転がり軸受の概念はここで飛躍的に前進した.レオナルドによってスケッチされた転がり軸受が実際に製作されたことを示す考古学的な証拠や歴史的な証拠は存在していないが,その軸受が新しい技術のスタートとなったことの証になっている.転動体を分離させる必要があるというレオナルドの洞察力には驚くべきものがある.
この考え方が,現在,転がり軸受の性能の基本的特徴として採用され,利点とされるポイントになっている.こうして,軸受の「保持器」または「リテーナー」という考えに当然たどりつくことになる.現代の軸受のこの特徴もまた,マドリード手稿の中でレオナルドによって初めて指摘されたとレティは記している.(1971)保持器つき軸受の設計図を図7.6に,そして注目すべきピポッド軸受のいくつかを図7.7に示す.これらの設計図は,当時の軸受装置の顕著な進歩を示している.
レティの引用した(1967)二つの例により,レオナルドは転がり軸受の基本的な機構を完全に理解していたことが分かる.マドリード手稿の中で,このピポッド形のスラスト軸受についてレオナルドは次のように述べている.「スピンドルの下に置く玉は四つより三つの方がよい.三つに玉は必然的に常に接触するが,玉を四つにすれば,そのうち一つが接触しないままになってしまう危険が生じるからである.」レオナルドは円錐形の軸の先端に相似形の三つの円錐ころを並べて支える構造を好んだようである.それに付いてこう書いてある.「スピンドルの円錐部分に一致する三つの等しい円錐体を使えば,スピンドルの回転によって,支持している円錐体は同じように完全に回転する」.
レオナルドによる転がり軸受についての広範囲の議論の中で,すべり軸受の改善に関する提言も見逃してはならない.彼は銅とスズの合金から成る低摩擦軸受材料についても述べている.また,マドリード手稿の中で,軸受における二つの異なった潤滑方法が検討されていることをレティは指摘している(1971).
すべり軸受の基本的な設計に関するレオナルドの主要な貢献は軸を支持し,「どのようなひずみが生じても」軸受から飛び出すことがないように設計された,二つ割り型の調整可能なブッシュまたはブロックを提案したことにある.二つ割り型のブッシュは,摩耗の進行に応じて軸のまわりを締め付けることが可能で,くさびまたは,ねじ駆動式のてこによって正確な位置が保たれるようになっている(図7.8)この二つ割り型のブッシュの利点は,約200年後に認められることになる.ちなみに「mirror metal」のレオナルドの仕様書が関連しているということはこの発明につながっているということである.
レオナルドの摩擦,摩耗,潤滑,軸受材料,軸受デザインの分野における貢献は本質,時間ともにおいても注目すべきことである.要するに彼は素晴らしいトライボロジストであった.彼の機械のこの分野における仕事によってそれが価値あるもの(それが基本的な工学問題の科学的アプローチの利点のとても優れた初期の一例)だという認識に達したかも知れない.彼の仕事の独創力の高さは,これらの研究へのレオナルドの個人の貢献度を見れば分かることである.さらにレオナルドによって考えられた似通ったトライボロジーシステムが現代でも使われているという情報が存在するということは彼がシステムのさらに発達したものを考えていたということの更なる証拠となる.レオナルドのトライボロジーの研究について述べる際に彼のノートで論じられている問題ないし解法が過去500年変わらなかったと述べるのに十分である.

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'横山'訳

ルネサンス期の産業におけるトライボロジーの発展
中世の長年にわたってベアリングの進歩がうまくいかなかったことについては既に記述した通りです.木製ベアリングが再び中国人の作ったものを凌駕してギリシア人,ローマ人,ケルト人が作ったような転がり軸受けの応用と発展の場面と機会を得ました おそらく水車や風車による機械力の安定した利用の増大とルネサンス期の技術的要求も相まってベアリング発展の機会が用意された結果により中世の終わりごろには鉄はベアリング材として使用されることが増えてきました.レオナルド・ダ・ビンチのノートは摩擦学的問題への最初の科学的アプローチを適用した見方を提供してくれます.しかし,我々はルネサンス期の他の筆者から産業状況でのベアリングの一般的な形についての証拠を得ます.Cellini (c. 1534),Biringuccio (1540), Piccolpasso (c. 1550), Agricola (1556), Baldewin (1561),Besson(1572) and Ramelli (1588).の作品で年代順に証拠が見つかります.

鉄と木の球
16世紀初頭(1520年ごろ)大砲の位置決めに使われていたボールは石から鋳鉄へと変わったと1945年にアランが指摘しています.球面転がり支持(spherical rolling supports)の使用へのもう一方の言及はフィレンツェの彫金師ベンヴェヌート・チェッリーニの自伝の中でその後まもなく記述されました.フランス国王の依頼で1534年にチェッリーニは高さ1.4m(4と1/2フィート)のユーピテル(ローマ神話の最高位の女神の夫)の銀で出来た像を作成した.チェッリーニによる説明を翻訳したものを読むと:最大限の努力により美しいユーピテルの像が完成した.私は像を木製の台座の上に乗せた.台座には4つの木でできた球体がその姿を半分以上埋もれる形で軸受けに収まっており,これによって小さな子供でも極めて容易に像を前後に動かしたり回転させたり出来るほど見事であった.この話は第5章で記述されているネミ湖に沈んでいたローマ船から発見されたもの(トランニオンタイプの玉の上を回転する支持台)を顕著に思い出させます.とはいえチェッリーニによって使用された球体は明らかに木製で自由に回転していました.

鉱業と金属工学(冶金学)
Vanoccio Biringuccio(1480-1539)とゲオルク・アグリコラ(1494-1555)
鉱山産業は,ルネサンス期に金属の需要の急速な拡大を満たすための多くの巧妙な機械導入の舞台となりました.幸いにも同時期に発展した印刷技術が私たちにその当時のベアリングの優れた説明やイラストを含む産業報告を提供してくれました.起動力は主に人間や動物,なかには水車,ごくまれに風車も使われました.最初の冶金包括的な冶金学に関する本はイタリア人のVanoccio Biringuccioが1540年にヴェネチアで出版したPirotechniaであろう.1556年と1627年にこの本がフランスで翻訳されたが1678年までにイタリアでは第5版まで出版されています.Biringuccioは冶金学に密に携わっていたがPirotechniaの第一版で数学者と記述されています.Pirotechnia1にはベルをぶら下げるための鉄製の(iron-on-steel)ベアリングをガラスもしくはガンメタル溝のあるベアリング材へ交換することに関する関心が記述された最初の本である.1556年にゲオルク・アグリコラが死んですぐに彼がかいた鉱業のすべての面に関する典的なルネサンステキスト‘デ・レ・メタリカ’が出版されました.この本は1巻〜12巻のまでのシリーズとなっていて1533年に1巻が書き始められ1550年に12巻が書き終わって1553年から印刷されました.このように多数の木版画を準備するという膨大な文学的な仕事が最終巻の出版を20年以上にもわたって延期させました.ゲオルク・アグリコラの本名はゲオルク・バウエルといいコロンブスが新大陸を見つけた2年後の1494年3月24日ドイツのザクセンに生まれました.彼は二十歳のときにライプツィヒ大学に入学し三年間で卒業,その半年後(1518年)にはツヴィッカウの私立学校でギリシャ語とラテン語の教師となる.1520年に彼は学校の校長となりそして同年,ラテン語文法の小冊子を出版し文筆家としての人生が始まりました.1524年に哲学,医学,そして自然科学を学ぶためにイタリアへと旅立つまでの2年間,大学で教鞭をとりました.1526年と1527年にはボヘミアの鉱山地域の中心として栄えたヨアヒムスタール(現チェコ)の町医者に任命されました.鉱業に関するすべての面においての彼の興味は1530年に鉱業の勉強をするために2.3年の旅に出かけるまでヨアヒムスタールすごした時期に急速に発達したに違いありません.1533年にはサクソニー州(ドイツ語ではザクセン)のケムニッツに医者として戻ってきました(ドイツに戻ってきた)1546年52歳のとき彼はケムニッツの市長となりこの地で1555年11月21日62歳で死亡した.アグリコラの著作物でトライボロジーに関連する記述があるのは第六巻だけだが他の巻も読む価値はある.地下での鉱業の原則や測量術は第5巻に記述されている.そして最初の段落でルネサンス期の技術者たちのポンプ装置に ‘…その機械は立坑のそこから水を引き上げそして採掘できるように新鮮な空気が不足しがちな立坑の奥深くさらには長い横穴にまで空気を送りこむ’といった文章を使い注目している.同じ章の挿絵で立坑の上に巻き上げ機が設置されていて,絵は小さいですが一本の太い立坑から木でできた枠組みの先端部がフォーク上になっていてその部分に軸受けなしでそのままドラム(巻き上げ機の回る部分がついています)第六巻にはルネサンス期の大部分の鉱業用器具や鉱業用機械のイラストや詳細な説明が含まれている.原理自体はギリシヤやローマの時代から使われてきた巻取りやポンプ,換気の機械だ.しかし,初期の鉱業用機械の発展に関する記述はほとんどありません.
地中深くの鉱業において,アグリコラの記述にある人や動物,もしくは水車や風車によって稼動する機械をつかい地下水を排除することによって地下水によって制限されていた部分も採掘が可能となった.鉱山において地下水の問題解決は1705年に蒸気機関という新しい発明によって拍車がかかりました.手押し車のベアリングは木製の横板に開けられているただの穴として描かれているが,鉄製と思われる車軸は,明瞭には記されていない.
図7.9に示す手押し車の木製の車輪は中央部分が四角い鉄製の軸のまわりを回転したものと思われる.巻き上げ機の記述は単に人が踏み車を使うかもしくは動物によって歯車装置を駆動させる巻き上げ機の説明だけである.より多くの荷を積んだものには鉄やスチール製のベアリングを使用したのは確かだ.フーバーが1950年に翻訳したアグリコラの1556年のオリジナルバージョンは次のような言及をしています.踏み車による巻き上げ機の説明で(第六巻のP162ページ)『先端がジャーナル軸受けになっている直立型の車軸がある』(第六巻のP162ページ)『巻き取りロープは後方の車軸についていて梁にある鉄製のベアリングでまわる』動物の力を使った巻き取り機について(第六巻のP164ページ)の説明,『軸受けの中に回転する車軸が入っている』第六巻のP164ページの同じセクションの別の部分に同時代のベアリングの形についての説明がある『鉱業ではあらゆる種類の車軸が使用されます.鉱業に使用されている車軸に関して端的に言うと,車軸の端部は面取りされていて,2対のジャーナル軸受けに囲まれておりキーによりその端部は固定されています.アグリコラの本の中で水をくみ上げるための機械について取り扱っているセクション(部分)は特に興味深いです.水くみ上げ機には多くのバケツが鎖状に組み合わされており,機構を動かすことによってバケツが順番に水にもぐり水を汲んで排出,また水に入り…を繰り返すようになっています.いろいろな工夫のなされた機械仕掛けが人が操作するクランクや踏み車から水車にまで並んでいます.手動によるチェーン式の水くみ上げ装置の説明を見れば構造上の意図により鉄の使用が増えたことは明らかです.機械に使用されたギアボックスはすべて金属で車軸部分は鉄,ピローブロックベアリングはスチール製です.車輪内部を回る小さな歯車及び歯の部分もスチール製で出来ており,歯は破損した場合に用意に交換が出来るように車輪に対してねじ込む形で取り付けられています.この機械のもっとも重要な特徴はレオナルドが構想したようなローラディスクベアリングを使用していると記述されていることである.アグリコラの本の第六巻によると…車軸は縦方向に立っており,周りは頑丈な樫の木材で倒れないように囲いがしてある,車軸の下にはスラスト軸受け状の軸受けがあり車軸の回転を滑らかにさせている.ルネサンス期の転がり軸受けについての直接的な証拠があります.幸運なことにイラストがあったので図7.10としてこの本に載せました.ピストンポンプに関する記述の中には金属製の円盤と皮製のワッシャーがポンプ軸の摩耗を防止するために用いられているとの紹介がある.ルネサンス期の産業のトライボロジー的行動の中で最も価値がある記録を紹介するために図7.11に記されるポンプのイラストを見てみましょう.二人の男が踏み車を動かし,それに連動したボールがパイプから出てくるたびに水が排出される仕組みとなっています.ホイールとピニオンがセットになったものをピローブロックで固定された鉄製のジャーナル軸受で支えている様子が明らかに記されています.アグリコラは鉱業術に関して大いに関心があったにもかかわらず彼自身絶対に鉱業と言う産業を人に勧めることはなかった.アグリコラは第六巻の最後に坑夫の病気と事故について書いている(第六巻P214ページ)‘利益を生むことに集中するよりも私たちは自分の体が健康で自由に動かせるように健康を維持することに重点を置くべきである.’産業の発達に必要な代償の大きさははアグリコラの以下のような記述によって思い起こされます.(第六巻P214ページ)‘カルパティア山脈の鉱山地区には7人の坑夫と結婚した女性がいる,この7人と言う数はいずれも夫の早すぎる死によるものである‘

轆轤
ピッコルパッソ(Cipriano Piccolpasso)(A.D. 1524-1579)陶芸と言う分野においてのもっとも興味深いトライボロジーに関する記録はピッコルパッソが1550年にイタリア北部で発表した‘陶芸についての秘密のすべて’に見られる.イタリア北部はルネサンス期において陶芸の中心地でした.そして彼の兄弟が陶芸家であったことから彼の陶芸に関する記述はとりわけ重要なものなのです.ピッコルパッソはカステル・ドウランテ(現在のイタリア・ウルバニア)に住んでいたとき,彼の三冊の‘陶芸の本’においてろくろの軸受けの形状だけでなく,潤滑剤の使い方にまで言及している.彼は図7.12のスケッチを示した上で,ろくろ用のピボット軸受けを『火打石』か『極めて硬いスチール製の板』の上を回転する鋼の先端として描いている.軸の上部の軸受けは『油のしみこんだ皮で覆われている』と記されているが,これはルネサンス時代にシールと潤滑剤の使用に言及しているまれな例である.このシーリングの例は,油のしみこんだしなやかな皮の使用目的が,ろくろの回転が上部の軸受けのアブレシブ摩耗により不規則となることを防止することにあったと考えてよいであろう.

天文時計の中のころ軸受
Eberhardt Baldewin(1561年)ルネサンス期においての転がり軸受けの関心は時計学の歴史に記されています.時計技師,Eberhardt Baldewinによってウィリアム・ヘッセン(William IV of Hesse)のためにひとつの非常に複雑な天文時計が1561年に組み立てられました.
図7.13を見ればBaldewinが水銀ダイヤルを導く部分にころ軸受けを使用したことは明らかです.

ルネサンス期の機械類
Jacques Besson (c. A.D. 1540-1573) とAgostino Ramelli (A.D. 1531-c.1604)ルネサンス期の初期の機械に関するいくつかの本はそのタイミングや本質によりとても関心がある.とりわけブッソンやラメリの書いたものは価値がある.鉱業と陶芸に関する専門的な本についてはすでに紹介されましたが,輸送機械や当時の主要な産業で使われていたその他の機械,ポンプやクレーンといった建築に関する機械に着目した本がより一般的でした.この多少の差は古典的な建築学がルネサンス期に復活したことによる影響であることは確かですが,ルネサンス期においての機械装置についての知識の差があります.西洋に印刷術がもたらされてから少なくとも一世紀にわたって機械に関する記述が出てこないことはケラー(Keller)が1964年に‘当時の発明家や機械技師の権利を守るためだった’としています.それは,著作権や特許などを守るためだったのでしょう.レオナルドですら自身のアイディアノートに鏡文字を使用する必要があると感じるほど用心していたのですから.
幸いにもこれらの問題は徐々に解消されていき,機械についての重要な記録についての記述が出てき始めました.これらの本において重要かつ顔となっているものは挿絵であり我々は挿絵からその本に書いてある文章と同じ,もしくはより多くのことを学ぶことが出来ます.ブッソンはおそらく自分が発明した機械について発表した初めての人であった,しかしフランス南東部のアルプス地方のブリアンソン近くのコロンビエールが出身地であるとされている以外,若いころの経歴は分かっていない.彼は1559年からの数年間をジュネーブで過ごし,最初に出版したのはスイスで‘実用的な蒸留について’だった.彼は彼が発明した製図機器に関する本を出版したフランスでのちに数学を教えることに多くの時間を費やしたようだ.ルーアン,パリ,オルレアンで数年過ごしたのち,チャールズ9世に自薦し,王室の技師としてパリに戻りました.ブッソンの有名な本‘Theatre des instruments et machines’(器具と機械の劇場)は1569年までには書かれましたがいつ出版されたかはいまだに謎です.1966年にジルは書いてから少し送れた1571-72年に出版されたのだろうといい,そして他の人は死後に出版されたものではないかといっています.彼はフランスからロンドンに逃げそこで死を迎えているのでおそらく彼はプロテスタントでしょう(フランスでは当時プロテスタントに対する弾圧があった)ブッソンの本には多くの測定器,いろいろな軍事用の機械,ボートなどの重量物の移動や持ち上げのための巻き上げ機や滑車の使い方が記されている.記述内容は悲しいくらいに簡単に書かれているが,図7.14や図7.15にあるように挿絵は豊富にあります.図7.14のほうは,砲身のつり上げと位置決めに使われる滑車を示しています.これは車輪のリムが極度に磨耗することを防ぐために鋲が打ってあることを表しているものであり,Luttrell詩篇がでた1338年ごろから16世紀の後半まで用いられた方法である.図7.15のほうは装飾的な彫刻台座を動かすためのローラーと巻き上げ機の図です.アゴスティーノ・ラメリは1531年にルガノ湖畔のポンテ・トレサで生まれた.彼はカトリックでありアンジュー公アンリー(のちのアンリー三世)に使えるためにフランスに来た軍事技術者でもあった.イタリア軍のためにラ・ロシェル(要塞のように強固に警備されている湾岸都市当時はプロテスタントの牙城)の測量をしているところを捕らえられプロテスタントの地下牢で数ヶ月を過ごしました.彼の書いた有名な本『多用で精巧な機械』は1588年にイタリア語とフランス語で出版されました.本の口絵でアンリ三世が‘フランスの歴代の王のなかで最も技術に関心があった’と言われていることから分かるがCapitano(イタリア語でキャプテン・大佐・船長)が(アンリのこと?)王室から信頼されていたのは当たり前のことであった.1588年に出版されたラメリの本は16世紀の機械をもっとも幅広く説明している本である.この本のシリーズの第三巻は著者の戦争経験を生かし戦争のためのいろいろな形状の機械について書かれている.水力装置については幅広く論じられ,入念に図解されているが,有名な風車の図を含む穀物の製粉機,水陸両用車,スクリュージャッキ,建設用の巻き上げ機にも及んでいる.トライボロジーの研究者が注目するイラストは現在の文では数多くあるが,続くセクションでは16世紀後半の産業においての実用的な機械について触れられている.歯車とすばらしい揺動斜板を組み合わせた水車によって駆動する注目すべき4気筒レシプロポンプを図7.16に示す.ローラはポンプを導くため,そして揺動斜板システムの円滑な動きのために使われている(図のH,N)この装置は,16世紀後半の転がり軸受けの急速な発展の証拠である.転がり軸受けと歯車装置の両方に興味深い工夫が施されている著名な図を図7.17に示す.この図の本質的な特徴は,ころの回転軸が確実に固定されたスラストリングが,井戸の揚水機に取り付けられた主導の歯車を支持しているところにある16世紀初頭にアグリコラによって紹介され,ラメッリの記述の数箇所にも見られるレオナルド・ダ・ヴィンチのノートに書かれていた転がり軸受を図7.18として載せます.図7.18のような踏み車が動力源となっている無限駆動型の水くみあげ機の場合,装置の二本の主軸を図中のHとI部分のころ軸受により支えています.この本はバー(棒状のもの)を伸び縮みさせることが出来るような機械の性能を高めるギアシステムの描写に数ページ割り当てています.ラック(平板状の板に歯が備わっているもの)を‘ころ’で支えている様子が明らかに見て取れるような装置のイラストを最後に図7.19として記載しておきます.ころ軸受のことばかり記述するのでラメッリはすべり軸受けに興味が無いように思われるかもしれないが,そうではなく
ほとんどのイラストはすべり軸受に関連するものだが,それらにはこのセクションを包括できるほどの目新しさを提示できないのだ.

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'川崎'訳

7.4 年代記
この時期の範囲は6章の時代のほんの15%と考えられていたが,トライボロジーへの関心を呼び起こさせる多くのレポートが存在する.ここでの話は2つのパートに分けられる.
1つ目のパートは1450年から1530年のルネサンス期であり,レオナルドの非凡な才能が摩擦,摩耗,軸受,歯車,潤滑の分野で発揮されていた.コロンブスが西への最初の航海に出発した1,2年後にレオナルドはマドリード手稿Tを手がけ始めた.その中で彼のトライボロジー研究の重要な記録が産み残された.手稿は4年後に完成した.コロンブスが3度目の探検航海で南アメリカを発見した直前のことである.
2パート目は1530年から1600年の期間であり,文字の印刷についてである.文字印刷は軸受けの進歩が特定の段階にあったことを裏付けている.文章中や表7.1中で言及されている文献の中には内容がトライボロジーについて傾倒しているような文献は存在しなかった.
このことはもっと強調されて然るべき事実である.一般的な特定の産業の重要性や一般的な形式の機械,それについての記述や図解から,最新のトライボロジー技術の明らかな形跡が見て取れる.クイーン・エリザベス1世が王位に付く2年前に,アグリコラは鉱業についての彼の名著を発刊した.一方,ラメリはスパニッシュ・アルマダ(スペインの無敵艦隊)が打破された年に,当時の機械を彼の図本に鮮明に描いた.
おそらく,ルネサンス期の最も興味深い様相として,トライボロジーの初期の科学的研究が実践的開発に沿った形で口火を切ったことがある.研究と産業のニーズの間の相互のやり取りはルネサンスから現代まで常に存在している.

7.5 概要
15世紀後期と16世紀初期において,トライボロジーに関係する限りでは,レオナルド・ダ・ヴィンチの突き出た才覚が著しく目立っていた.やがて物理科学への彼の寄与した功績を軽視する傾向があらわれ始める.
彼のトライボロジーにおける功績は以前は価値を認められなかったが,現在での評価は以前とは反対になっているようだ.レオナルドは摩擦,摩耗,軸受け材料,すべり軸受け,潤滑系,歯車,スクリュージャッキ,そしてそれらに加えて回転要素軸受の研究をしていた.彼が摩擦の法則性と摩耗の特徴についての理解の進展と,現代のモノと非常によく似たベアリングの考案というこれらのテーマについて対して行った研究は,このテーマについての最初期の記録となっている.彼の才能がトライボロジーに注がれていたことは実に幸運なことであったが,彼の研究の価値が認められるのはだいぶ時が経ってからであった.
活版印刷の開発はおそらくこの時期の最も重要な技術革新のひとつであった.活版印刷により西欧での機械技術による初の版本が作られた.そこにはその時期の中期の産業技術が当時での魅力的な文字により記述されていた.
とくに興味深いのは様々な分野の技術が数多く要求されていたが,自然科学と機械工学を二分する明証がなかったと特筆されていたことである.
機械についての16世紀の名著には,軸受けについての記述や図解が多く含まれている.すべり軸受けにはますます金属材料(特に鉄や鋼)が用いられるようになり,低摩擦の軸受け材料への関心が大きくなっていたことへの根拠も存在している.すべり軸受けの発達に平行して,転がり軸受けの分野も盛んになっていた.レオナルドによって描かれた転がり板軸受は1494年に機械装置に用いられ,アグリコラとラメリの著書により広く支持された.従来型の転がり軸受は広く(特に水力機械装置で)利用された.
ルネサンス期の間でトライボロジーの重要性が強く認知されるようになった.これはレオナルド・ダ・ヴィンチのノートだけが理由となっているわけでなく,16世紀の様々な機械装置に関する記述や図解なども影響している.この時期は産業革命に先立って,軸受けの着実な進歩の準備が整い,トライボロジーにおける科学的な試験の手法が確立してきていた.

8章 産業革命に向かって―摩擦の科学的研究の初期

8.1導入
産業革命に向けて動き始めた時期,トライボロジーの発展は,近代科学の出現に大きく影響を受けた.バコンやガリレオのような科学の革新を推し進めた人々の信念は後の研究者たちに自然哲学における根本的な問題と当時の機械技能に付随する問題に対する科学的解決手法とその方針を与えた.近代科学の出現と技術課題に対する近代科学の適用によって間違いなくこの時期の突出した発展はもたらされた.
ヨーロッパの中で新しい科学的な研究法が発展していた地域を中心としてこの時期に主題として扱われた研究の活動が行われていた.しかし,E-Tu Zen SunとSHIOU-Chuan Sunによって翻訳された,17世紀の中国技術の重要性についてのSung Ying-Hsingの著書によると東洋における技術と機械装置の発展は西欧のそれと同等のようだったと示している.水力製粉機が米をすり潰すのに必要とされる人力の90%を補助したと記録が残されていた.また数は少ないがトライボロジー的問題の中で,小麦粉をひくときの粗いひき臼の摩擦によって起こる熱についての悪影響についての記録もある.他にも,Sung Ying-Hsingは多彩かつ多量なオイルの使用法についての記述も内容に含めている.影響についての考察には,車軸に一滴のオイルを与えることで荷車を走らせることができ,1タン(107リットル相当)の油が航海に出る船の浸水防止のために用意される,とある.
フランスとイングランドは17世紀と18世紀初期の西ヨーロッパでのトライボロジーの発展に主要な役割を果たした.その時代は(軸受に関する限りではルネサンス期の研究の続きとして)静かに幕をあけた.当時の文学の情勢を反映したウィリアム・シェイクスピアの作品の中でのこの時代の史劇の中でも,工学の発展はほぼ目立つようなことにはなっていなかった.曲,詩,劇などがイングランドの中でチューダー朝の終わりにかけてもりあがっていた.
ロンドンの英国学士院やパリの王立学士院のような名高い科学学会の形成は,イングランドやパリでの科学革新に影響を受けている.それらは科学的手テーマの公開討論会を設けたりした.またトライボロジーはそれらによる多くの恩恵を受けた.フックの1685年のStevinの帆で風を受けて進む車についての論文は17世紀の軸受や他のトライボロジー的なトピックについての考え方の,公開され記録に残されたものの一つの例である.17世紀には偉大な科学研究の1つが発表された.ニュートンの諸法則である.潤滑のメカニズムの理解は,摩擦に基づく力学の知識の発展と比較すると,初期のレベルのままであったが,しかしニュートンの原理は将来の流体潤滑の理解の土台となった.
18世紀の始まりに,トライボロジーの研究の著しい増加が見られた.17世紀後期と18世紀初期の文献の中に,回転板軸受の利用についての多くの記述が存在した.そのうえ,すべり軸受材料,転がり軸受,遮熱具,潤滑,摩耗を含む幅広い項目についての議論,検討の記録が残されている.しかし,1699年から1750年の間で報告された,摩擦についての優れた早期の科学的研究こそが最も重要なものであった.
もしこの時期がトライボロジーの発展という点に関して分けられるなら間違いなく1600-1698年と1699-1750年の2つの期間に分けられる.もしこの区切りが行われていたなら最初の99年はあとに続く,少なくとも51年の摩擦の研究のための土台づくりということになるので気の毒といえるだろう.
一般的な産業発展の中には,次に続く科学的研究についての詳細な論議の元となるものもある.特に18世紀では軸受の応用や機能向上が挙げられる.この話では輸送問題が大きく目立つ,特に車輪のついた路上走行車に関して.しかし港や炭田,当時の重工業で一般的に利用されていたレールの上を馬が引いて走る車には意味はない.
この時期の摩擦の研究についての詳細な文献については問題ない.前の章の中では話の展開が摩擦や摩耗への対策のための装置の発達につての歴史的記述や考古学的物証に依存していた.しかし,新たな概念により我々は新たな段階へと踏み出した.最初摩擦を制御するための基礎過程は理論的かつ実験的に研究され.そして発見については文献や学会の発刊物に記載された.
この頃はトライボロジーの歴史の中の最盛期であった.

8.2 17世紀の産業
17世紀のヨーロッパの産業で機械動力の需要は絶え間なく増え続けていた.鉱業では広範囲に及び深さのある場所での活動を支援するために信頼性と効率性のある揚水装置と送風装置を必要としていた.冶金工業では鉱石を圧砕し抽出設備を動かすのによりパワーのある装置を必要としていた.一方,織物工業では製品の質と量を向上させるために自動的に動く機械の需要があった.人口の増加と市街の発展で,家庭や公共目的の両方に対する十分な水の供給が必要となった.農業ではモロコシの臼ひき,灌漑,排水のための機械動力を求めていた.
動物や人間を主動力としたものはまだ多く使われていたが,経済性と技術的要因から,風力や水力機械の広範な利用への関心が大きくなっていった.都市化が業務の専門化の度合いを増加させる一方,大きな規模での工業プロセスの発展には,人や動物の集団の限界を超えた労力が必要になる.水車や風車の大きさや数をその時期の間増やしていた.そして風車の中の軸受の発達により9章のspecial section のテーマが生まれた.実際に,これ等やその他の,ピストンポンプのような機械装置はある程度の改良や物理的大きさで,当時の技術で考えうる限界に達していた.このような場面で必要とされたのはより良い材料,設計,生産方法の導入であり,最も重要なのは蒸気を基にした動力生成の新しい原理の利用である.産業革命を促進させる状況が作られることがなければ,一般的な技術の進歩のためだけでなく,特にトライボロジーについての技術や科学の大きな進歩のためにこの時期は重要である.

Vittorio Zonca
17世紀のはじめの産業機械の一般的な形態の好例としては,ヴィットリオ・ゾンカの著作がみられる.パドヴァの印刷業者のベルテリによって出版された本によるとゾンカはアpドヴァ市民共同体の建築技師であったようだ.1603年に35歳で亡くなったという事実以外ほとんどゾンカについて知られていない.彼の著作は16世紀と17世紀初頭の機械装置の描写がある古典文献の1つであるとみなされている.ゾンカのTeatro Nuovo di Machine et EdificiiはベッソンのLivre des Instruments Mathematiques et MechaniquesやラメリのDiverse et Artificiose Machineより誇張なく機械発明の現状が記載されていたとケラーは述べている.その多くについてを含む著作には,多くの種類のミルや,とりわけ織物工業,印刷機,粉砕機械などの機械装置の鮮明な図が載っている.様々な技術革新の利点について記録され,その記述は,独創的な機械装置の発達に対する関心を伝え広めていった.
ゾンカの著作は17世紀初頭のトライボロジーの状況を説明するのに2つの観点から重要であるといえる.1つは摩耗の観点からであり,こすり合わせる2つの物体の組み合わせは互いに異なる金属でなければならないということ,もう1つは様々な形式の軸受の図解である.彼は鋼と滑らせる場合,黄銅以外の金属は摩耗するとの見解を残した最初の人物である.この考察は,摩耗についての言及とレオナルド・ダ・ヴィンチの記録とロバート・フックのレポートの間が空白の期間となっていた,鋼と鋼のすべりの結果についての言及をふくんでいたため,非常に重要な考察だといえる.互いに異なる金属を用いた軸受を使用する事の有用性と,当時の機械装置を支える軸受の組み合わせを鋼と黄銅にすることの効果が明確に認識できる.
織った布地を縮充は材料を洗い水の中で叩いて目を詰める.中世から続く元来のやり方では桶の中で布地を足で踏みつける.水力縮充装置は早くも12世紀に開発されたが,その工程を鮮明な図にしたのはゾンカがはじめてである.図8.1に見られるように,水平カム軸が水車によって駆動する.大きな木製のハンマーがカムによって持ち上げられ,放されたら桶の中の布地を叩く.装置が織物の縮充をしていないときは,地域のための巨大な洗濯機として機能していた.水力縮充装置は労働力の節約だけでなく市場に提供される布地の品質の向上にも役立っていた.毛織物の大事な仕上げを担っていた.
図8.1に見られるゾンカがスケッチした平軸受は7章で述べられた15,16世紀の軸受の一般的な特徴を備えている.スタブ軸は,木製フレームに固定された金属板(おそらく鉄製と思われる)でできた半周軸受に乗っている.スケッチの中で軸受の半径が軸よりずいぶん大きくなっているのが目立つが,これは動荷重下でカム軸が回転していたことによる過度の摩耗の結果と思われる.
他にも,重厚な金属門を開くのに歯車付きの回転軸とともに使われる手動エンドレススクリュー,それを支持するのに用いられたピボット軸受についても記載している.中央に四角の穴があいた大きな金属歯車は17世紀初頭の機械構造の印象的状態を表している.
印刷機は17世紀のはじめに広く普及した.また図8.3には,図を入れるのに使われる印刷用プレートが示されている.
プレスの構造やインクの調合,銅版の彫刻やエッチング,そしてその耐用年数が議論されている.
ころAは見たところツゲ材か西洋梨の木を旋盤加工したもののようである.このころはBのような同じ材質の溝付きの木片に組み込まれている.Bのような,ダ・ヴィンチにより考案された,割り軸受ブロックは17世紀初めには一般的に利用されていたことが示されている.

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鈴木 横山 川崎

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