第4回英文輪読12月27日



後藤 大原

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'関'訳

揚水
これはおもに都市の人口の増加からの要求の結果からの批評を受けた期間、かなり重要な主題となった。かつての揚水装置のトライボロジー的な重要な言及はすでにウィトルウィウス、アグリコラ、ファネロ・トゥリアーノ、ラメッリに関連して書き留められた。様々な形状のポンプ、給水塔、水路は16,17世紀にドイツ、イングランド、フランスで組み立てられた。そのなかでも、ピストンポンプは重要な役割を果たした。水力機械における現代の発達の代表例を提供したロンドンの都市からの形跡を頼ることは十分すぎるだろう。
 ロンドンに取り付けられている最初の動力駆動ポンプは、1582年にドイツのエンジニアのピーター・モーリスによって作られた。テムズ川にある水車は、ロンドン橋の近くで組み立てられた最初の吸引と圧力ポンプを駆動させるために、使われていた。ロンドン都市のもっとも高い建物の一番高いところまで水を届けたことにが、とても大いに感心され、市長と市議会によって、ロンドン橋の組み立ての許可を承諾された。1594年までに、ビーヴィス・ブルマーはブロークンウォルフで馬の鎖ポンプを確立し、そのうちにロンドン橋の先のアーチは、モーリスの後継者の別の揚水ポンプによって占領された。ロンドン橋の北端付近のこれらのポンプの一つに関して貴重な説明がジョン・ベイトによって記述された。(1954)
 このロンドン橋のポンプのベイトによると、‘テムズ川が引いているときと満ちているときによって、水が小塔の上のほうへ上り、都市へ提供するためにコンパス上で2マイル以上高く運ぶ。’
 彼の機械のスケッチは図の8.4に示される。水車XXはテムズ川の潮の流れによって運動し、重いホイールPを連結棒RRとPより下の横についている取っ手によって振動させる。その運動は水が通りに沿っておかれる主要な木のパイプに入る前にワイヤー格子によって圧迫されたところの急流近くの最高点に行かせるために強い黄銅または鉄製の円筒WWからパイプNNを通り運搬する。いくつかの小さいパイプ‘特定の箇所へ供給させる’は主要な木のパイプに結合してある。
 木製の水車が黄銅の軸受によって支えられた.また,17世紀当時この黄銅は軸受材料として広く使用されていた.彼はこう書き記した.‘この水車のGudginsは強い黄銅の軸受けで回る準備をしていく必要がある.’
彼はさらに,鉄製のシリンダの方が,黄銅性の物より耐久性が高かったと述べている.
 ポンプは水車または17世紀に急速に発達した消火エンジンに取り付けられ,ジョン・ベイトはこれについて書かれた彼の本の部分を気に入っている.
 さらなる計画は、成長している都市の要求と足並みをそろえるためにロンドン橋計画についていった。エドワード・フォード卿のポンプを除いては、きわめて少ない技術の内容はこれらの計画で利用できるが、これは、歴史学と摩擦学の両方の興味深い情報として我々に少なからず供給される。
 エドワード・フォード卿はサセックス州のハーティングで1605年に生まれた。彼はタブリン大学にかよい、35歳で初めての特許を取得した。そのうちに彼はサマセット・ハウスの近くのテムズ川のポンプの設備に関しての発明のためにオリバー・クロムウェルによって交付された約12個ある特許状の一つを認められた。南国戦争の間エドワード卿が国王を支えること選らんだという事実を驚くべきだ!彼は国王の軍の大佐になり、のちにないとに叙され、1642年にチチェスターを引き渡した後ウィリアムウォラー卿によってとらえられた。彼はすぐに釈放されたが、一年とちょっとすぎた後にあらんでる上の壁人に再びとらえられ、ロンドンの塔に送られた。これで終わったかもしれないが、フォードは1644年に大陸のほうへ逃げ、イングランドに戻り、再び収監された。チャールズ1世王は1649年に処刑され、その6年後フォードがオリバー・クロムウェルから特許状を受け取るという驚くべき発表があった。エドワード卿がクロムウェルの義理の息子であるヘンリー・アイアトンの姉妹と結婚したという事実はそのケースに影響をもたらしたかもしれない。
 特許は14年続いた、そして、ロンドン、ウェストミンスターや囲われた箇所に水を送るためにポンプ、水槽、パイプ、その他の器具のための権利を授かった。大火事の11年前に書かれた文書には予言的な言葉が含まれている。‘ロンドンとウェストミンスターの多くのパーツが水不足とそれによる火などの多くの危険性であるため’
 1663年にロンドンを訪ねたフランスの旅行者バルタザール・デ・モンコニーズさんはフォードによって作られたポンプを記述した、彼のスケッチは図8.5に示される。4つの吸引ポンプは120フィート(36.6m)の水を通り1.7ガロン(7.71?)の水を運ぶ垂直に配置されたロッドからのレバーで駆動した。垂直ロッドは馬を動力とされる水平歯車から12個のカムによって動かされる。カムは木製でカム面は鉄製であり、青銅製の摩擦ローラーがカムに接触し、垂直ロッドを支えていた。カムの連続的な動作は、摩擦ローラーへ負担をかける、また、馬を苦しくさせる。ポンプの最大効率は30パーセントであると予測できる。
 フォードのポンプとウォーターハウスの最初の用地は,図8.5(b)で示されるホラーの図面の写し上で参照できる.デ・モンコニーズは党の最上部からとられるために良い景色にコメントをしたが,サマセット州もしくはデンマークハウスを見渡したという事実は,その破滅を証明することだった.チャールズ2世マナキィ王の次の返還は,彼の母王女ヘンリエッタ・マリアをデンマークハウスにつかせることだった,また1664年7月31日,国王自身は不快な評価を理由に3か月以内に塔の撤去を命じた.
 西ヨーロッパのいくつかの大きな町と首都は,この17世紀前半機械的な揚水の装置の興味深い盛り上がりに参加した.国内目的のための水の豊富で信頼できる供給の見込みが,革新を正当化する理由と刺激への提供を意味するだけでなくて,水圧エンジニアのポテンシャルも高めました.
 1608年のパリでは,リントレアーという名前でのフランダースのエンジニアは,ルーブルとチュイルリー宮に水を供給するセーヌ川によって駆動されるピストンポンプをポンヌフ川の下で作った.似たような水道の計画は1669年にノートルダムで完了された.533フィート(162.5m)の上部に対して約4分の3マイル(1.2km)の距離を通してベルサイユの宮殿と庭のために十分な量の水を届けるシステムを設計するよう,非常に大きく非常に驚くべき計画は,オランダのエンジニアであるラニクインに引き受けられた.精巧だが,非常に効率が悪いシステムは川では14台の下射式の水車によって2つの中間の水槽と253台程度のポンプが駆動していることを意味した.ポンプのいくつかは中間雄貯水池におかれ,水車の高い位置から力をとった機械伝達は相当な光景を提供するに違いない.それは駆動システムを約90%の効率の力を失ったと報告される.おそらくそのベルサイユに設置されたは約100馬力(7.45kW)もあり,また一日100万ガロン(4,546,0001)の流量だとされ,その当時世界で最も強力なポンプのシステムであった.これらの17世紀に発達した水力による設備はやがて廃棄され,蒸気機関によって動力を得る方式に変更された.
 蒸気機関への摩擦学的な考慮が後の章に書かれているが揚水機器についての本章を終わるために蒸気動力の出現に言及することが重要だ.読者はストアーズとクラークによる揚水の施設と蒸気機関のそれぞれの歴史の概要について役立つ記事を見つけるだろう.蒸気機関による力についての関心はアレキサンドリアの英雄にさかのぼるが,蒸気圧,または蒸気を凝縮することによって作られる部分的な真空による揚水のための最大限の可能性は17世紀の初期に初めて認められた.イタリアの貴族であるポルタは上記の凝縮からなる揚水のための機械を述べ,またデ・コーは水でいっぱいにして暖められた密閉容器の蒸気による膨張力を有利に使って噴水させるかを説明した.1655年に書かれ,1663年に出版された本では,エドワード・サマセットは本質的にデ・コーの改良された形の揚水エンジンを述べた.そのような40フィートの高さまで上げれるエンジンはボクスホールで作られた.
 17世紀の終わりごろ,イングランドの鉱山業は水の蓄積がより深い所に達したとされるという深刻な問題に直面した.結果的に蒸気エンジンを生産するさいにポンプの活動に蒸気の動力を利用するという印象的な試みはこの問題に刺激を与えた.
 トーマス・セーヴァリー指揮官は1698年に‘日の推進する力によって揚水するエンジン’で特許を授与した .彼は1699年六月の王立協会の前にエンジンのモデルを示し,そしてやがて,コーンウォールの鉱山から水を上げるために作られたフルサイズのものについては1702年に「The miner’s friend」というタイトルの下で出版される有名な小冊子で述べられていた.蒸気は,二つの銅器の中のボイラーから互い違いに管理することができた.真空ポンプと呼ばれるセーヴァリーの機械は、家庭は工業内の条件のための問題から蒸気の応用に初めて成功した。
 次で最後となるがチェックをしている蒸気エンジンの歴史はもっとも重要である。トーマス・ニューコメンは、1712年にスタッフォードシア州のダドリー・キャッスルの近くで最初の大気の光線エンジンを作りだした。冷水の注入によってなる結露が気圧以下になる前にトラニオン搭載のビームの一端が上方へ動くため蒸気は垂直なシリンダーが金属のピストンとロッドとよく合い公認された。光線のもう一端は従来のポンプにつけられるチェーンを運んだ。蒸気シリンダーからのポンプシリンダーへの分離はとても重要な進展となった。初期のニューコメンのビームエンジンはとても効率が悪かったが、それは10から72インチ(254−1829mm)のピストンサイズでヨーロッパの国々ですぐに採用された。現在の標準的な機械は、きっちりハマったピストンとシリンダーは供給できなかった、またニューコメンの大気のビームエンジンは蒸気の結露による真空を維持するために皮のシールディスクを利用した。

 17世紀と18世紀初めの軸受け
 17,8世紀の平軸受けの開発の興味深く重要な特徴として、軸受の材料は確実な標識だ。支持されている柄より柔らかい軸受けの金属の使用を説明している証言は、旋盤と車両のベアリングについての文献から参照できる。平軸受の機械の配置は取り換え可能なベアリングの部品を移動するということを反映し始め、これはまた18世紀初めの旋盤で説明された。
 転がり接触軸受けのより冒険的な利用は、18世紀初期のオランダの風車の報告とフランスやイングランドでの自動車の建造によって論証される。
 平軸受と転がり軸受の開発の確実な情報は18世紀初期からこの機関で、旋盤、黒のメーター、オランダの風車と馬車に関しては論じやすい。

旋盤
 この時代には、17世紀の木工技術者や鉄鋼技術者の製作するものよりもはるかに精度のよい木製および鉄製の機械要素が要求されるようになったが、これを契機として、より精度の高い加工手段が開発されるようになった。旋盤はまだペダル駆動式であったがそこには最新の軸受けが使用されていた。
 図8.6で示すように軸受は摩耗対策のために調節可能になり、また鉄のキャップが取り外し可能になった。軸受は自由に木の支えるブロックの垂直溝に滑り込むために二つ割り型の軸受けが採用されたが、鉄のキャップが本体にボルト留めされ、軸受の上半分を探すために蝶ナットの中心とねじが運ばれた。柔らかいベアリングの材料による摩耗のためにベアリングのシャフトの場所は連続的にあうように発達し、やがて半分の新しいベアリングは楽にできた。軸受は白目(スズ、鉛、亜鉛からなる合金)などの軟質金属からできていた。
 平軸受の中の軟質金属の使用と18世紀前半の平軸受設計の洗練された性質のこの実例は、間違いなく多数の素晴らしい設計によって強化され、またプルミアの本の旋盤製造の様子によって打破された。

 クロノメーターとナビゲーション
0.5〜1度以内の海の経度の決定のための1714年に経度(ロンドン委員会)によっておこされる競争の受賞者の一人は、ヘンリー・サリーという名前のイギリスの時計屋だった。1716年に転がり軸受の形を非常に精密なクロノメーターにはめ込んだので、(何年間もパリにすみフランスの言語を書いた)サリーさんは、18世紀初期の摩擦学に関する歴史を入力する。
 転がり接触軸受けは、18世紀になった直後に、精密機器の正確さを改善するのにこのように確定的に用いられた。1561年のボールドウィンの天文時計は別として、サリーさんの黒のメーターは疑う余地なくこのあたりでさいしょの記録的な開発とされた。

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'平'訳

オランダの風車
 我々の風車の軸受の歴史の主な書物はチャプター9に書かれている.しかし,現段階では特記を要求するオランダとドイツの工場に2つの参考文献と軸受の導入の重要な実例がある.
 1724年ドイツの工学に関する書物には、主に風車と水車について書いてあり,ロイポルトは風車の中空のシャフトの使い方について言及している.1735年にロイポルトは粗い表面の潤滑のために獣脂または植物性油を使うことを推奨している.現在の潤滑の物理的機構の概念は,ロイポルトの粗い表面の潤滑は少なくできている,まるで軸受が粗い表面上に小さな玉を持つかのように,軸受表面が転がされているというロイポルトの観察結果によって几帳面に説明されている.
 国々で構築された初期の風車の中で,北海の南部に隣接する,ほぼ水平の風軸の収容しているキャップは風車の構造体の主要部とともに要素を成しました。そして、鋸で切るために,挽く,ポンプで水を揚げる,ということを機構の順番に含んだ.完全な構造は、卓越風に直面した時,通常は手で回転させることがあった.後期、器用な水車大工たちは、ポストミルにかえて風に直面しているキャップだけが回っている間,機構が静止した構造を保っているタワーミルを使った.
 いくらかの面白い軸受構成は,これらの様々なキャップ支持条件から生じ,RarmelliのLe Diverse et Artificiose Machineとオランダの有名な工場本が1725年に出版され,そこに開発の多くが記録されていたのは幸いだった.オランダの風車のキャップが硬材ブロックで最初に支持され,ガイドされたように見えたが,しかし,18世紀 'roll-rings'はトライニオンマウントローラースラスト軸受の形態で使用されていた.大きいスラストころ軸受のこの使用は1700年までに確立された.そして,オランダの製材場またはpaltrokで使用される取り決めのとても優れた実例はVan Natrusほか(1734、1736)によって初期の18世紀の工場の報告に示される.軸受は図に明確に示す.図8.7は,固定レンガ支持構造及び可動木製キャップに付着したトラックとのアイダに独立して搭載され,ケージとローラーリングで構成されていた.ローラーその中心をトライニオンまたはピンによって所定の位置に保持されていた,しかし,これらの軸受に使用される材料は確実性があまりなかった.Wailes (1957; 1963)は7 in X 7 in (178 X 178 mm)でのこれらのロールミル軸受を鉄の箱にはめた大きな正方形セクションに使われているローラーについて言及した.Davison (1957 b)が鉄のころ軸受の最初の使用に適応するものであると考えるのに対して,より小さな鋳鉄のローラーが後日,イングランドで使われた点に,Wailes (1957)も注意する.トラックは木で確かにできていたが,Van Natrus et al. (1734)はほとんど何もローラーの材料について言わないように見える.窓敷居または下のトラックがオーク材でできていたとStokhuyzen(1962)は書く,しかし,彼も全てのミルが木から造られたと述べる.そしてこれがきっとこれらの魅力的な圧延要素スラスト軸受の初期のローラーのための材料であったように見える.

キャリッジホイールと軸受
 木,鉄,時折真鍮の簡単なジャーナル軸受は,17世紀と18世紀初期の機械の大部分に使われ続けた.より早く言及された,特別なものといくらか稀な洗練された軸受などの例は別として,馬車がこの時代の軸受開発に最もすばらしい刺激を与えた.荷物,速度,経済的圧力を増大させることは,陸上通信と輸送の主形態で,より効率的で信頼できる軸受を求めることにつながった.17世紀は,19世紀に加速される鉄道競争まで続いたcarriage軸受の改良が始まった時代となった.現在の章そしてその後の章のポイントを例証するのに必要な重大な研究,デザイン,および特許を参照するためにあとで時間を設けるが,当分はフック,de Mondran,ローの三人によって3つのすばらしい貢献に関心を持つ.

Robert Hooke (1635-1703)
フックは1635年7月13日土曜日にワイト島のフレッシュ・ウォーターで生まれた.彼は居じゃ弱で病気がちな子供であったため,両親は7歳になるまで彼の命に希望が持つことができなかった.教区の牧師であった父は,ロバートの少年時代を通してずっと不安を感じていた.さらにロバートは絶えず勉強の妨げとなる頭痛に悩まされて,初等教育すら十分に受けることができなかった.文法の初歩は暗記したものの,ほとんど理解できなかったと思われる.その上,長い間1人で過ごさざるをえなかった.その間小さな機械仕掛けの玩具を作って楽しんでいたが,その体験が後に大変重要な役割を果たした.
 やがてウェストミンスター校に入学し,校長のバズビー博士の家に下宿した.オックスフォード大学に入学し,クライスト・チャーチ・カレッジに所属する一方.オリエル・カレッジのグッドマンの給費生になった.学位を取ったのは,1662年か1663年であった.
 1665年頃からオックスフォードの科学的な会合に出席し始めた.8歳年上のボイルによって機械技術に関する手腕が早くから認められ,ボイルの装置全部を製作し,ボイルの真空と気体に関する実験の大部分は,フックによって行われたもの考えられている.ボイルの助手になり,また生涯を通じての友になった.1662年に,できたばかりの英国学士院の実験責任者に任命された.
 フックは,伸びは力に比例するという物理学における最も簡潔な法則の発見と,「ミクログラフィア」誌での顕微鏡による観察に関する記述でよく知られている.トライボロジーへのフックの業績はそれほど知られてないが,彼の功績は重要である.キャリッジ車輪軸受での摩擦を減らして,摩耗の問題における彼の洞察に富んだ所見は1685年2月25日に王立協会にキャリッジに関する演説で話されている.フックの会話は様々な搬送方法に関係があった.しかし,彼はベルギー市民と軍のエンジニアのサイモンによってオレンジ王子のためにとても効率的なsailing chariotの計算にかなり時間を捧げた(1548−1620).しばしばStevinusと呼ばれるStevinは,ポストレオナルド・ダ・ヴィンチ時代の偉大な人物の1人だった.彼は,1585年に少数を導入した.静力学の分野で重要な貢献をして,圧力のみcolumn上の液体重量に依存していることを流体静力学の基本法則として確立した.
 Slevinの戦車はマスト,帆,その他の便利なリギングと,車輪の上の船のようだった.フックは,海岸の砂浜の上を動くとき,28人の男性を運んでいる間に車両が2時間で約42マイル(68km)移動したと,フックは言った.戦車はpivoting axle-treeで操縦され,車輪が広く,安定性のために間隔をあけたことを設計上の特徴として言及した.そこには,2つ大きな帆や後輪で操舵可能な戦車と前輪で操舵できる小さいシングルの航海車両があった.ホイールのリムの幅は, 18インチ(457mm)と24インチ(610mm)の間で,この幅は砂の中に過度に沈下するのを避けるためであった.フックはStevinの戦車の載貨量が多いことと長距離の移動ができるということでこれまでに知られている中で最も早い車両だという結論になった.車輪のコシキの軸の端が擦れることでの多少の小さな物質をのぞいてだけ、彼は運動に対する抵抗が小さいと主張した.そしてそれは、かなり油が塗っていて、抵抗が非常に小さい.彼は、イングランド南部の平野の浮き沈みに対応すべく交通機関にこの風力車両の適応を考えた.そして彼は、4輪の代わりに3輪の使用および車輪の装備を含んでいた改良のための提案を進めた. 車軸の大きな端に動かすことに代わって,小さな鋼のpevotsまたは,ベルメタルソケット,注油が使われる.
それはフックの転がり摩擦と滑り軸受の照明発言に必要な前後関係を提供してから、Slevinのsailing chariotや車両の一般的な考察の報告はいくらかの詳細に論議された.回転摩擦についての彼のコメントは、車輪の動きを妨げる転がり摩擦を考察して,フックは転がり摩擦の二つの成分を区別している.「第一の成分が一番重要であって,転がりながら押し付けられる車輪の重さによって生ずる,車輪の底の部分における変形や割れによるものである.第二の成分は底の部分の車輪に対する粘着および凝着である」摩擦に関する産業革命は初期科学研究の方へ向かった.
 現在ではよく知られている材料の変形を伴う摩擦抵抗と凝着が,フックの問題に対する評価の中にこのように取り入れられている.さらに変形に起因する摩擦に関して,車輪と路面が硬ければ表面がうねっていても全抵抗は小さくなるとしている.・・・しかし,そこでほとんどあるいはまったくロスがなく,あるいは説明される相当な妨害ではない.失われた力は摩擦以上にホイールパスを上げたりすることで摩擦から車輪に力が伝わり,再び得られる.
 彼は,さらに通路での回復可能か回復不可能の重要な変形の区別した.
また,それが同じ理由で,車輪に返りまたは,上昇する場合.床の降伏は任意の障害ではない.
しかし,運動のとても多くが他のどの手段でもそのような型を上述の床の中に沈めるために必要な力があって;重さ、圧力または斜めに直接ダウンまたはどんな突き進むことによってあるかどうかにかかわらず、それによって失う。 彼は粘着と凝着の質問について書いた。
第二の障害は床からもしくは別の方法を受けていて,それは道からの付着と凝着の一部である.
そしてそれを取り外すか,床または別の方法から車輪の後の部分を上げるために、必要な新しい力がある.そしてそれはかなりしっとりして粘度のある道にリムホイールがくっつく。
 回転摩擦についてのフックの観察の図表現は図8.8に示される.
 それから、固定車軸を中心に回転している車輪または車両がソケットで回転している固定車軸車輪アセンブリの相対的なメリットに関して第4.2節で取り上げて、「ホイールビークル」で述べる問題にフックが取り組んだ点に注目するのは面白い.主に車輪がしっかりと車軸に取り付けられるため,彼は速度のために設計される車両の後の取り決めに賛成した.
 最後に、迅速のために造られる車両のために、車両設計の面に捧げられる彼の論説のセクションにおいて,フックは,デザイン,材料,注油とシールがある、進歩的な17世紀の概念の価値ある論評を発表する.すべてこれらの話題を含んでいる一節は,完全性のためにガンサー(1930)から直接引用される.
 車軸で摩擦が小さいと、計算,鋼鉄軸,およびベルメタルソケットがクランプ,木材,鉄の止め輪よりも優れていて、効果がある.そして,もし,ちりやほこりを入れさせない供給があるならば,硬化した鋼のgudgeonsはベルメタルソケットの中でよりよく運転する.そして絶えずそれらがお互いに削り合わないように油を供給して運転させる.しかし,最高の方法はgudgeonsを大きな滑車を動かすことだ.(かじり行動,摩擦,すり減りを妨げられる)
ここにはより柔らかい軸受での壷金の慣らし運転または鋼のシャフトの使用の推奨がある.ベルメタル(スズの割合が大多数の銅像の中でより高い銅とスズのその合金)は,明らかに良い選択だ.効果的シールの必要と効果的ベアリング作動のための潤滑油の十分な供給も注意される.軸頭を小車輪に取り付けることの大きな長所への最終的な言及は,間違いなく,ルネッサンス時代に開始されて,16,17世紀に静的機構のために発展するローラーディスクベアリング概念への面白い言及だ.ロバート・フックが重要な圧延ベアリング開発を予想したことを後のセクションで述べられていることを18世紀に道路車両とベアリングの適応が示している.

De Mondran(1710)
1710年にパリのサイエンスアカデミーはDe Mondranという紳士によって提出される車両のための計画を承認した.雑誌はディスクまたはローラーで支えられた、そして、車両の軸頭を小車輪に取り付けることの長所へのロバート・フックの言及は別として,これは多分車両のローラーディスク軸受の使用の最も初期の参照だろう.ルネッサンス時代,および輪車両中の装置の長所が,主張によるde Mondranによって提出された設計に関して説明されるので,回転軸の別々に旋回されたディスク支持物の使用は固定機械類の中で着実に増加した.「回転接触摩擦のため,1匹の馬は2時までにほとんど達成されることができなかった仕事を簡単にすることができた.」
アラン(1945)も,別の初期の18世紀のドキュメントもFahyが発明した砲車はde Mondranの軸受装置を参照していると言及した.

Jacob Rowe (1734)
Roweは、チェック中で期間に動かされた車両のために転がり軸受支持物の開発に関して、我々の最後で、おそらく最も多彩な記述を提供する.Roweは1734年に英国王ジョージ二世から特許543を授けられた.それ以降,英国の特許情報は転がり軸受の発達についての貴重な情報源になっている.
 Roweの論文の口絵はそれを明白にします.重い車輪軸の下のタムまたはポイントまたは前記軸が負担しなければならない場所に対してホイールが生じる.ワゴン,カートやコーチにだけでなく,水車,風車,と馬車にも適用することができた.彼は海上にアンカーを揚げる際にローラーを使う習慣に言及して,さらに彼の車輪の大きな利点は,料金と重労働の面でサポートしていると主張している.de Mondranのように、単一の馬が運搬中のrollerdiscベアリングの使用によって以前に2匹の動物を要求した仕事をすることができるとRoweが主張したことに注目することは面白い。
 それが出版される前に,Roweは彼の論文を約7年書いた,そして,1727年に彼はコメントのために多数の友人に論文を送った.彼の友人は、デバイスの基本原理を承認し,1732年にはデモ用のモデルを構築した.彼は書いた.「私は,優秀な数人の前で実験を行い,そして彼らは援助や称賛を持ち、私の発明(私が判断の及ぶ限りでは一致して記述されてここにどれを持つかという一部)のため特許を取り出すように,彼らは私に勧めた。」
 Roweの摩擦に関する理解は,摩擦車の使用で彼の独創性に匹敵することができなかった.彼は天然または偶発的のどちらかであると摩擦を想定した.前者はAmontonsの第一法則(セクション8.4)に従っていて,後者は摩擦面の粗さと代表的な抵抗を関連付ける.彼はpevetsの抵抗が実用負荷に耐えられると仮定しました.それから,彼はデモンストレーションを始めた.軸中心から作用する距離がpevetsの半径のそのままで全部の重さも,摩擦によって作用する抵抗によって休止する.
 彼の開発した摩擦車の実際的な配列は図8.9に図示されている.用語「摩擦車」は、さらに明瞭さを備えた概念を要約する論文のII章の冒頭記事に導入されている.
 摩擦は抵抗がゼロによって生じ,そしていくらかのホイールのPevetsを表面に固定する.安心してください.上述のPevetsまたは車軸の終わりが他の車輪の頂上または上部に付ける原因になること以外によって上述の障害をキャンセルする方法はない.この目的のためにだけに貢献している車輪はPevetsまたは摩擦ホイールと適切に呼ばれているかもしれない.そして,これらの摩擦ホイール(他の下のもの)の数をencreasingすることによって,それらのPevetsが休止するかもしれなくて,互い(一般的であるように,何もない表面につけなければならない最後のPevetsを除いては)の頂点または上部の上で回転するかもしれなくて,どんな大きい大型車の摩擦でも知覚で最も低い程度になるかもしれない.
 摩擦ホイールを利用した転がり軸受の例を図7.6に示す.この装置は軸径の20倍以上の大きな摩擦ホイールをいくつも組み合わせて使用されており,ハンドル(Z) は固定ピボットの場合に比べて8000分の1の非常に小さい力で動かすことができる.
 摩擦ホイールの適応について書いてある論文のセクションは「Pulliesとブロックの物は海上で使われていた」,「バランス」と「ポンプ」に注目すべきだ.両方とも転がり摩擦のサポートを応用したもので,そして摩耗低減のための木,鉄,真鍮,鍛造した鉄鋼を含む材料の様々な組み合わせの使用について言及した.
 論文で最も面白い技術的な一部に,動かされた車両で摩擦車が使われている.様々な応用は,大型四輪馬車や大砲のために土地,Dung-Cart,二輪馬車,乗り物を含めて考えられていた.摩擦車両は一般的に2フィート(0.6m)未満の直径で,直径を超えない(25‐4mm)の鉄の車軸に備えつけられていた.同じく彼の論文に記載されている摩擦ホイールを使用した中で面白い例を図8.11と図8.12に示す.四輪馬車とワゴンの後輪には直径約24インチ(610mm)の摩擦ホイールAが,前輪にはそれよりもやや小さい約18インチ(457mm)の摩擦ホイールBが使用されている.ベアリング材料とシールの重要性についてのフック解説を彷彿とさせるこれらの車輪の更なる報告でRoweは書いた,
 Ironと鉄の車軸の両方とも木材とフープ材でできている場合がある.そして,それらのPevetsはベルメタルナットまたはCoggsで回る.しかし,小さいHorizontalホイールはそれらが道路の泥で詰まるのを妨げるために,鋳造鉄、真鍮またはベルメタルがあることを提唱する.それらは皮でおおわれているかもしれないし,薄い木材で包まれているかもしれない.
記述は,Roweが以下を述べた『Advertisment』と表題を付けられる論文のセクションに起こった.人がたくさんに乗った大型四輪馬車の試験でホイールの摩擦を前の通りとっておくことは,私が道で締め金がきつく締められていて,これまでに不足していたと分かったと説明した.(7時間の間で悪路を36マイル旅行している2頭の馬によって実行された.)
しかしどちらか一方の側にもたれている大型四輪馬車上で,馬のドラフトはかなり大きいように見えた.しかし大型四輪馬車は相当片側に傾いている(馬の牽引は相当強いと思われる)それは側面の軸の肩の摩擦のよって引き起こされた,それらはベアリングまたは表面の故障につながる.
したがって,私はかの通りの方法で上述の観察のための改善を目論んだ.
 改善は,図8,13の中で2つの構成で示すように軸の荷重に抵抗した横摩擦車の使用から成りました.「横ホイール」に摩擦車の建造の説明が記載されている.
 Roweの論文の最後のセクションはおそらくトライボロジー技術革新に起因する積み重ねを定量化する最初の試みを表している.トライボロジーの経済的側面は,1966年のJostの報告書が最高潮に達し,1734年以降,幾度も検討された.主題は第11章で考慮された.問題へのJacob Roweのアプローチは,興味に満ちているが,本のために我々は彼の議論の概要のみ提示する.
 論文のはじめに,四輪馬車やワゴンに摩擦ホイールを使用すれば,馬車を引くために必要な馬の数はそれまでの半分ですむと計算している.1734年当時の英国では,全国で4万頭の馬が使われていたので,半分の2万頭で十分ということになる.馬の仕事は1日当たり1シリング6ペンスに相当するので,1日当たり1500ポンド,年間で547500ポンドが直接経費として節減できる.さらに,馬の維持費が年間10ポンドであるため,間接経費として年間で20万ポンドも節減することができる.
 Roweの計算によれば,馬車に摩擦ホイールを使用することによって年間747500ポンドの節減が見込まれるが,論文は馬の数を減らすことを想定していたのではなく,多くの馬車を使用している鉱山での効率化や生産性の向上に重点を置いて書かれている.なお,論文の最後に「肥料の運搬が経済的に効率よくできるようになるので,不毛な土地のほとんどがいまや肥沃な土地に生まれ変わる可能性がある」ことを強調して,論文を締めくくっている.
 前記の計算は馬車だけを対象にしたもので,Roweはこの他に産業機械を作動させるために必要な動力は,摩擦ホイールを使用することにより,3分の1に削減可能と想定している.Roweが当時の鉱山,炭坑,製粉工場などの産業機械の運転コストを年間60万ポンドと考えていたが,これは4万頭の馬に要する総コストの40%に過ぎず,当時の産業の発達程度がよく理解できる.
 こうした,産業機械の動力の削減額は20万ポンド計算されるので,節減可能な金額は合計947500ポンドにもなり,18世紀初頭の英国大蔵省にとっては無視できないほどの大きな金額に

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'後藤'訳

8.4摩擦の科学的研究のはじまり
 17世紀の機械装置に対する関心は西ヨーロッパで、特にフランスやイングランドでみつかることだった。そして私たちが印象的な摩擦の科学的研究のはじまりの証拠を見つけるのはこれらの国々においてです。おそらくこの形成する期間の最高の解説は、250年以上前に発展したアイディアの多くが摩擦過程についての私たちのモデム理解の中心的な特徴を形成するために時の試験に耐えた。
 フランシス・ベイコン(1561−1626)が科学的な学習の実践的な基礎を与えた17世紀の初期に、この科学的な活動の種はまかれた。研究する実験のアプローチの長所に対する彼の主張は多くの注意を引きつけ、やがてNew Atlantisという死後の出版物はロバート・ボイル(1627−91)、ロバート・フック(1635−1703)、クリストファー・レン(1632−1723)を含む著名な人々の団体のロンドンでの非公式な会議に激励を提供した。これらの会議はイギリスの南北戦争の混乱した時代に開かれた。また、およそ1649年から似ている社会がロンドンとオックスフォードの両方にあった。そのような会議は王立協会の先駆でした。君主制が復活した1660年に形成され、国連憲章と共に提出され、チャールズ王2世の統治中の印章によって1662年7月15日に通った。フランスでは王立科学学士院は1666年に設立され、それは十分な制定を受け、さらに1699年にルイ王14世によって提出され英国学士院の恩恵を受けた。
 フォーラムは、科学的な調査に関する自由な議論のために、イングランドとフランスにこのように落ち着いた。必要不可欠な成分を摩擦の科学的研究に提供した17世紀のヨーロッパの2つの特徴は疑いなく、これらの学問的な科学的社会の構成と機械に対する発達する関心でした。これらの摩擦論理的研究の歴史の内容は、私たちがいくつかの重要な調査の詳細に従うとともに出てくるだろう。読者は、ボーデンとテイバーの本を見つけるだろう(1964、Pt、U、Ch.XXIV)、「固体の摩擦と潤滑」、そしてKragelskiiとShchedrov(1956)の仕事、「摩擦科学の発達」が特にこの期間の価値ある情報源である。

 摩擦の法則と粗さの果たす役割―アモントンのフランス学校,de la Hire and Parent
 17世紀末のフランスにおいて摩擦に関する研究が始まったが,歴史的に見てもその業績から見ても,アモントンを最高の名誉ある位置に置かなくてはならない.アモントンの実験とその結果に対する考察は,1699年12月19日に王立学士院に提出された古典的な論文の中で論じられている.
 論文の冒頭において,アモントンは機械の役割の重要さ機械の性能に及ぼす摩擦の影響について説明し,摩擦の研究の必要性を論証している.さらに摩擦の研究の必要性ついて,「例えば,角材AB(図8.14)を斜面CD上で上方へ動かすために必要とされる力は,重量と勾配の正弦の積に等しいということを古典力学から導き出しても何の意味もない.というのも,ここでは摩擦が考慮されていないため,例えば,この角材が地面にこすられて生ずる抵抗は,この力に等しいどころか,おそらくその何倍にもなっているからである」と論じている.
 「様々な材料を互いにこすり合わせる実験」にアモントンが使用した装置は,簡単だが示唆に富むスケッチに示されている(図8.15).試料A-AとB-Bは,C-C-Cで表されているばねによって互いに押し付けられている.一方,摩擦に打ち勝ってすべりを起こさせる力は,ばねばかりDによって測定される.
 銅,鉄,鉛,木などの様々な試料を組み合わせてテストした.面白いことに,全実験を通して表面に車軸の潤滑に使用される豚の脂肪が塗られていた.アモントンが述べた法則は,現在の研究者によってしばしば「乾燥摩擦の法則」と呼ばれているが,17世紀の文献によって,アモントンが現在では境界潤滑というべき条件,すなわち油が塗られている表面の摩擦特性を実験・研究していたことが明らかにされたのは,非常に有益であった.
 アモントンの主要な発見は次の通りである.
1. 摩擦に起因する抵抗は,圧力(荷重)の大小だけに比例して増減するが,接面      積の大小には関係しない.
2. 表面に豚の脂肪を塗っておけば,鉄,鉛,木,のどれを組み合わせても,摩擦に起因する抵抗はほぼ等しくなる.
3. この抵抗は,圧力(荷重)の三分の一に等しい
最初の発見は,次のような摩擦の第一法則と第二法則を抱合している.つまり,
1. 摩擦力は与えられた荷重に比例する.
2. 摩擦力は見かけの接触面積には無関係である.
これらの声明,特に摩擦している接触面積の摩擦に対して影響がないことに関すること,がすぐに認められないかもしれないと予想した.彼の論文を発表する前に「…摩擦の性質を注意深く考慮する…」と彼に促したので幸運だったかもしれない.彼は表面の粗さ、および運動を滑らせる際に互いの上の連結する凹凸を上げるのに必要な力の点から摩擦の根本的要因について明瞭に考えた。

 図8.16のAのような重量のほとんどないいくつものブロックに任意の荷重を加えて,掃除に動かすのに必要な力は,実際にはすべり面の数に左右されることをアモントンは述べていて,明らかなパラドックスの提供さえ行っている.一見したところ,このことは,抵抗は見かけの接触面積に関係しないという摩擦の第二法則と矛盾するかのように思われる.しかしながら,アモントンは各すべり面における抵抗は重量Cに比例するので,抵抗全体はこの力にすべり面の数を乗じたものに等しくなると指摘している.
 摩擦過程における表面粗さについて粗さが弾性体,剛体いずれの場合にもこの議論が有効であることを,アモントンが認めているのは興味深い.剛体表面の観点から問題が提示されたため,彼は弾性粗さの状態を図8.17のように示した.ばねの力に打ち勝ってAからBに与えられる力は,そのばねの強さと等しいおもりを乗せた力に等しい.
 摩擦抵抗は,剛体粗さの突起を持った対向する傾斜面を引き上げる力として発生する場合もあり,弾性粗さを変形させるのに必要な力として発生する場合もある.この概念は,最近の摩擦の研究を考慮して修正されなければならなかったが,それでもなおアモントンの法則は一般に認められ,多くの面で大いに有効である.
 その日の機械の問題がアモントンの摩擦の研究を促したという証拠は、彼が機械の摩擦に起因する有効な推進力の損失の計算の実用的なガイダンスが書いてある彼の広範囲な論文の後半で見ることができます。彼は書いた「今,摩擦の状態,その性質およびその法則を十分に確立して,それは単にもっとも複雑な機械にどれだけの摩擦があるか知るための計算を減らすかもしれない規則について何かを言い続ける.さらにレオナルドダヴィンチとアモントンが調査した材料が一定の摩擦係数を示したと両方が結論づけたことに注目することは面白い.前者は1/4,後者は1/3の値を見つけた.
アモントンはホイール・ベアリングで摩擦の計算を考慮して、円形の軸や滑車に包まれたロープやコードの緊張に対する摩擦の影響に多くのスペースを捧げた.彼は、コードと滑車の間の摩擦に起因する抵抗が緊張およびコードの厚さに比例することを知った.さらに、彼は正比例にないが、それが増加する滑車直径につれて増加することがわかった.これらの観察をさらに論評するためにイギリスのデザギュリエ(1734)に任された.
1699年にHistoire de l'Academie Royaleでかなり一般的に考えられていた抵抗力は滑っている面の大きさに依存したという考えが間違っている,とアモントンが述べた'Moulin a Feu'の講和で報告された.それはさらに報告される.「この新しい考えは学士院で若干の驚きをもたらした.」その結果,画家,建築家,物理学者,科学的な問題を多く扱う作家であるPhilippe de la Hire (1640-1718)はすぐに発見物をチェックするよう動機づけられた.等しい荷重で明らかに違う接触域の範囲の下で木と木を,大理石と大理石を滑らせることに関連した実験に基づいた結果を彼はすぐに確認した.一度事実が確認されたならば,de Ia Hireは知られている物理原理に基づいて進んで説明を求めた.軟らかい場合,水平に曲がり位置しなければならなかったか,固い場合,自身の連結を解かなければならないか分離するかもしれなかった表面の生地から抵抗が生じたと疑問に抱かなかった.彼の考えは、概して摩擦の性質に関するアモントンの見解と一致した.面積とそれゆえ接触の数と無関係の抵抗を与え,全体の反応が一定のまである間,弾力性のある凹凸の場合,それは彼らの数に反比例しているのを見られる.固い凹凸の場合,互いに表面のしわを持ち上げることを要求される力から抵抗が生じたという見方を彼はまたとった.このように荷重との直接的な関係を産出したが明らかな接触域に対する依存を産出しなかった.フランスの数学者Antoine Parent(1666-1716)は傾きθの傾斜の上に体を引く際に標準的な力と接線の比がtanθであったという事実に注意を引いた 英国学士院にtwo memoires(Parent,1704年) の静力学と平衡の摩擦についての新しい理解の影響を議論した.
場合によって,すべり始めるために表面から凹凸を分離するのに必要になるかもしれないというPhilippe de Ia Hireの提案は,おそらく摩擦に関するアモントンの見解を大きく拡張したものである.それは不変の表面の変形とせん断の概念を明らかに導入する.そして抵抗は凹凸の数と表面の大きさに依存する可能性を彼は指摘した.加えて,多くの機械において油やラードがすべり表面の間に位置する場合,接触域から空気は除外される.それから,すべり表面は表面積に比例する荷重と摩擦抵抗を与える大気の重さを全て運ぶだろう.大気の荷重への言及は紛らわしいが,de la Hireは間違った理由から円滑になった表面をすべることに対する抵抗の正確な記録に近づいた.Philippe de la Hireはギアの完全な数学的な分析を完了して、複雑な歯の使用を推薦しました。彼はギア性能で摩擦の役割を認め,こう述べた「歯面は互いに転がり,摩擦を避けるように設計されるべきである.」
5年の短い間に,摩擦の基本的な法則はアモントンによって明確に述べられ,de la Hireによって確かめられ,18世紀に本当に注目されだすParentによって力学に導入された.

ドイツとライプニッツ
ドイツは摩擦の初期の研究でGottfried Wilhelm von Leibnitz(1646-1716)が選ばれた.パリで数年間を過ごした後,Leibnitzは1676年にDucal Libraryを監督するためにHanoverに引っ越した.このポストでいる間,彼は摩擦の研究の貢献を出版した(Leibnitz,1706年).けれどもその仕事が初期のFrench Schoolの知識を大きく広げず,区別はすべり摩擦と転がり摩擦との間で作られることは興味深い.

Francois Joseph de Camus(1724)
De Camsは小規模な摩擦実験を行うために町のそりの使用や時計を作ることや車両建設などの技術のような実用的な考慮によって動機づけられた.彼はグリースを塗り,油を差し,湿らせた表面の観察をし,摩擦力は荷重に比例し面積は関係しないということがわかった.また彼は,回転体に働く摩擦力の適応半径が大きくなったとき,抵抗トルクも大きくなることに注意した.これは彼を摩擦の力が速さにつれて大きくなったと間違った推論によって信じさせた.

凝着の概念―イギリスにおけるデザギュリエの業績
17世紀の終わりに近くなったイギリスにおいて,摩擦過程に対する毛筆の考え方の誕生に向けて,大きな一歩が踏み出されることになった.デザギュリエ(1683-1744)の父が,なんと勅令以後にイギリスへ亡命してきたユグノーの牧師であったという点で,この発展がフランス人とかかわりがあった.デザギュリエは,ロンドンにやってくるまで,オックスフォードで教鞭をとっていたが,そこでの彼の自然科学の講義は少なからず注目を集めていた.彼は皇太子の専属の牧師になった.またニュートンの友人でもあって,英国学士院にも選ばれた.
 彼の摩擦に関する主要な研究は,1734年に出版された「実験科学講義」という題目の注目すべき書物に収められているが,それに先立って鉛の凝着に関する研究論文を1724年に英国学士院に提出している.彼は凝着力という概念を導入することに成功し,摩擦抵抗全体に対するその作用の寄付を,すべっている物体を使って実験するという明快な手法を思いついた.彼の見解をこうして,互いに重なり合う粗い面というフランスで主流になっていた考え方に新しい因子を加えることとなった.
 英国学士院に提出された論文を読めば,デザギュリエはそれぞれ重さ1ポンドと2ポンドの鉛の球を作って実験を行っていることがわかる.「これらの球を平坦部の直径が1/4インチになるように一部を切り取り,平坦同士を手で押し付け,そして平坦の部分がよく付くように少しねじってみた.球がぴたりと吸い付いたため,手Hで上の球Aを紐を介してぶら下げた(図8.18a).下の球は上の球との接触によって吊り下げられており,そこには総計16ポンドに達するはかり皿SとおもりEの荷重が加わっている.さらにわずかだけおもりを加えると球は分離してしまった.接触面の寸法を測ってみると直径1/10インチ以下の円になっていることがわかった.もっともこの面は不規則な形をしているので,正確に測定することはできなかった.この実験を何度も繰り返し行ってみたが,球の凝着の大きさはその都度異なっていた」.
 デザギュリエの図を下に計算してみると,鉛の球間の凝着に起因する垂直方向の凝着応力は,1平方インチ当たり2000ポンド(1平方メートル当たり13.8MN/m^2)以上になる.次の実験においてデザギュリエは,直径2インチ(50.8mm)の同じような鉛の球と図8.18bに示すような装置を使用した.ここで,球を分離させるために,さおばかりを使って力を加えた.個別に行なったテストの一つで,47ポンド(209N)以上の凝着力を記録した.1713年にOxfordからWestministerのCannel Rowまで移るとすぐにデザギュリエは家から一連の講義を始めた.彼の講義本は「実験科学講義」(デザギュリエ,1734)となって二巻にわたって出版された.ウェールズのフレデリック皇太子に捧げられた第一巻では,彼は単純で説得力のあるやり方で凝着力の概念を紹介した,
 それぞれを壊すより地面からほとんどの球を上げるほうが簡単なように;重力よりも凝着力のほうが強い.その原因である力を何でも私たちは凝着と呼ぶべきである.体の部分がお互いに触れるときこのひきつける力は最も強いが,接触の前にあった球が離れたとき,重力より非常に速く減少する.そしていかに賢明な距離にきても凝着はほとんど感じなくなる.
 彼の講義の第一の講義(上記の引用はここからとられる)にデザギュリエは凝着を示す多数の実験を記述している.彼の哲学的な実用主義は,同じ講義の中でさらに説明される.
 私たちがこの後説明するいくつかの現象である重力,引力,斥力のような物体の特性は,実際に存在しない超自然的な現象や想像されたものではなく,実験や観察によって作られた私たちの感じれる対象である.確立した法則によれば,これらの特性は同じ状況の下の同じ方法でいつも作用して結果を生み出す;そして私たちがそれらの隠れた原因について推論しないときから,それらの原因の原因はわかっていない.Cartesiansがいつも私たちに反対するので,私たちの哲学で認める代わりに,私たちが超自然的な現象を拒絶するのは明らかだ.
 第二の講義は力学の基本的な概念に関係していて,第三の講義は「いくつかの機械の能力または機械力によって呼ばれた単純な機械または器官」.彼はこう書いた「生命を使う全てのエンジン(しかし合成された)は単一機械の様々な組み合わせで構成される.」彼は7つの中からどれをリストするか「はかり,リーバー,プーリ,Peritrochioの軸またはホイールの軸,インクライン,ウェッジ,スクリュー」.
 同じ講義で,彼は科学原理をエンジニアリングシステムに適応させるために懸念を十分に説明する中で機械の性能における摩擦の影響を考慮する必要を強調する.
   私たちはエンジンと材料の欠陥に注意しなければならない.そして,Stickageまたは摩擦の量;それはいくつかのエンジンを構成する部品や材料の性質の組み合わせの数によって異なる.そして各々の特定の機械の言及についての欠陥を発見するために,私たちができる最良の方法を利用した.私たちは数学上真実と想定されているエンジンに関いてされた計算から十分に推定されるように許可するよう注意しなければならない.
 私たちの主題に大きな意味をもたらした第四の講義は「エンジンの摩擦量がわかるいくつかの方法」は考慮される.デザギュリエは明らかにその日の機械のデザイナーと生産者にガイダンスを行うつもりだったが,彼の摩擦理論はアモントンの法則の確認でしかなかった.摩擦力の測定を試みた実験者は第四講義の第二パラグラフに含まれていた注意の言葉を評価するだろう.物体の摩擦で非常に多くの状況があるので,同じ物体の同じ実験でもいつも成功するとは限らない.だから,数学的な理論は簡単に確立できないが,私たちは多くのいつも極地の間で中間を取る実験から私たちを支持するのに十分な哲学を推定できるかもしれない.
 しかしながら,エンジンの中で行われるようにグリースが塗られるか油を差されたとき,全てに同じ摩擦がほとんどあるので,一つの法則は木,鉄,真鍮,銅,鉛のようなその日の主要なエンジニアリング材料に適用することができる点に注意される.その凝着の影響は表面仕上げの役割が考慮されるところで導入される.摩擦への大きな影響は表面の粗さに関連があると見られる.そしてすべり面が非常に磨かれているとき,摩擦力が実際には「物体の表面を接触させるために近づけるだけ近づけるようもっていくとき凝着は感じれるようになる.」という事実によると上がるかもしれない.とデザギュリエは注意する.
 アモントンの発見は概説されて,明らかにデザギュリエの理論の基礎を作って,摩擦のためになされる費用でデザイナーのガイドを作る.法則は簡潔に述べられた「摩擦は重さの1/3に等しく,表面を押す加重から生じ,表面積からではない.」
 1/3の法則からの逸脱は材料の素材,表面の質,潤滑油の種類で生じることはわかっていたので,デザギュリエは摩擦の測定値を表で表した.結果はロレーヌの紳士であるMonsieur Camusの仕事から引用された.この人はTraite des Forces mouvantes, pour Ia Pratique des Arts & Metiers, E.と名づけられた本を準備し出版した.しかしデザギュリエは独立した試験で値を確認したように見える.1781年にCharles Augustin Coulomによって使用された装置の形式が運動に対する抵抗を評価するために使われた多くの方法の中で予期したそりと滑車の配置.木,鉄,鉄のすべりがねで作られたそりは導き,おそらく水かグリースか油が単に乾燥した条件の下で木板か金属板で真鍮と銅を滑らせた.滑車上に通された強い絹糸は運動を始め,維持するために多くの小さい鉛の球を受け取れるがま口の財布に素晴らしい軸に適合した.それは安定した動きを成し遂げるため滑車の下の高さを1インチ(25.4mm)上げることによって2フィート(0.6m)の長さの幅木を傾ける必要があるとわかった.
 20個でそりの重さとその荷重に等しくなるように鉛の球を準備した.図8.19の作表された結果は20個の球の数を分けることで摩擦係数の値にこのように変換できる.0.15から0.90の範囲の摩擦係数の値は潤滑油の存在が値を悪くしているのに注意するのは面白い.著者はエンジンに潤滑剤を使うべきではないという結論に対して警告している「なぜなら私たちは素晴らしい機械に使われていることを知っている」.彼は滑っている組の穴や表面の欠陥を満たし,ローラーの働きをすることで運動を容易にし,摩耗を最小にする材料として潤滑剤の役割をみた.彼は一般的に油によってより遅く動く懐中時計のような小さい機械でさえ水よりも低い摩擦を生み出す油やグリースに注目した.それはより安定した等速運動とより良い時間計測を生産する.
 デザギュリエは読者に摩擦の性質に関する彼の意見を露出した記述を残さなかった.彼は機械の性能の評価において摩擦のための十分な費用を作る手順のガイダンスと共に,乗り物や機械の機能に関する多くの言葉を捧げた.彼が「しかしコーチ,ワゴン,カート,そのほかの車輪で動く乗り物は生活にとても必要である.一ヶ月それらを廃止するだけで世界が混乱するには十分だろう」と書いたとき,18正規の社会で車輪の付いた乗り物の重要性はデザギュリエによって強調された.彼の車輪のついた乗り物の力学の見解は,前述のMonsieur Camusの見解と明らかに一致した.彼は次に後者のこの話題から引用した.
後のセクションで彼は人間工学に没頭し,馬と人から期待される相対的な成果をガイダンスで披露した.そしてもう一度彼は他の実験的な成果を書き記した.また和親協定にふさわしくない以下の文章を書いた.「5人のイギリスの労働者は馬,またはたった七人のフランス人の男性もしくはそれと同じ数のオランダ人に値する.」
しかし彼はまたもやこのようなことも書いた「トルコのボーイは最も強いイギリスのボーイよりも二倍の荷物を運ぶ.」
一つの重要な注意としてデザギュリエはアモントンと意見が合わなかった.後者は直径が増加したことによってプーリーもしくはローラーの周りのロープを曲げる難しさは減少したが,その分反比例して効果も下がってしまうと言及した.デザキュリエは直径に比例して直接効果があり,違いは実験の手順によるものであると考えた.彼自身の実験ではロープの輪の間で摩擦を避けたがアモントンの実感では,ロープの部分が互いにすれていたと彼は思っていた.
私たちはどのようにして18世紀前半のデザギュリエのトライボロジーへの貢献を評価するべきであるのか?彼はアモントンのまだ知られていない情報をごくわずかしか採用しておらず,アモントンの凝着の概念は実験によって彼の理念に組み込まれなかったか,評価されなかったと主張される.しかし,より広い争点をもたらすのは私たちの評価であるということは重要なことだ.
摩擦に関するデザギュリエの著作は自然科学において彼の広範囲の講義で名誉あるものだと分かる.彼の一般的な講義から公的で大きな講演を通してイギリスの科学者,エンジニアの関心を集めたのは大切なことである.彼はそこで2世紀後のボーデンとテイバーがケンブリッジで確立させた凝着が著しくすべり摩擦に影響しているかもしれないというアイデアの種を提供した.おそらく彼の仕事の最も大きな利点は機械性能における摩擦の影響力のより現実的な予測のために明らかな手引きを与えたことだ.彼は自ら実験し簡単な摩擦理論が機械にどのように組み込まれるのかを例によって見せた,主にフランスからの存在するデータとともにそれを書いた.彼は機械と動物の力利用に心配しているすべての人に摩擦の認識を懇願している.これは彼の研究の主要な効果である.

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'大原'訳

バーナード・フォレスト・デ・Belidor(1697-1761)による堅い球面凹凸を用いた表面モデリング
 ロンドンでのデザギュリエの公演が発表されてから三年後,バーナード・フォレスト・デ・Belidorは水力建築に関して上下二巻の著書で,でこぼこな表面の興味深い表現を摩擦の分析に導入した(1737).でこぼこな表面の,球面凹凸の配列による表現の観点から,摩擦プロセスの物理的理解の進歩のために,彼の摩擦に関する研究はより重要であった.彼は,連結した堅い凹凸の見方に戻り,球1セットをほかの上で引くのに必要な力を計算し始めた.その力は,凹凸の数には関係なく,それゆえ38年ほど早くアモントンによって確立された摩擦法則と一致していることが分かった.彼の分析は,0.35という荷重に対する摩擦力の比率を予測した.球面凹凸によるでこぼこな表面のモデリングは,1737年以降これまで,摩擦と摩耗の理論的な研究に関心を持つトライボロジストに評判がよかった.

摩擦と応用数学―レオンハルト・オイラー(1707-1783)
 摩擦研究の最も注目すべきこの時代の調査を終えるために,傑出した18世紀の数学者レオンハルト・オイラーのことを思い浮かべる.オイラーはバーゼル(スイス)で生まれたが,神学,数学,物理学と生物学を勉強した後に,彼は20歳でロシアのサンクトペテルブルクに住みついた.ヨハン・ベルヌーイの学生であった後,サンクトペテルブルクにあるサイエンスアカデミーの数学部門で助手をしないかとキャサリン1世に勧誘されたときに,ヨハンの息子ダニエルとニコラスと同僚になった.彼は1730年に物理学の教授になり,そして1733年にダニエル・ベルヌーイがスイスに帰ったとき,後を継いで数学の教授になった.サンクトペテルブルグで更に7年後,オイラーは変わりやすい時代の中,ロシアを出ざるを得なくなった.彼はベルリンに移動し,そこで1741年にフレデリック大王の勧誘でサイエンスアカデミーのメンバーになった.ベルリンでの25年の間,彼は驚くほど連続で出版物を生産した.しかし,フレデリックがそれほど手厚くなくなると,女帝キャサリンの勧誘で,1766年にもう一度サンクトペテルブルクに帰ることを決めた.彼はロシアで残りの17年を過ごした.そして,人生の最後の14年程で,彼は数学的,物理学的なテーマで308の重要な書類を書いた.
 オイラーの手腕と莫大な著書数は伝説的だ.彼の人生と研究の優れた利益において,KragelskiiとShchedrow(1956)は,彼が知識へ約750の独創的な科学的貢献を生み出したと述べた.1735年にロシアの船のための航行目録の編集で無理をして片目の視力を失い,全盲になった1766年にサンクトペテルブルグに帰り人生の後半を過ごしたことが思い出されるとき,この驚くべき記録は更に大きな割合を呈する.
オイラーは,ベルリンで研究していた1748年に,摩擦に関する二つの論文を科学アカデミーに提出した(1750年).ひとつめの論文では,平面と接している固体の力のつり合いと一様な加速または減速の決定における摩擦の役割が検討されている.オイラーはパランの方法に基づき,水平面に対する傾き?の斜面を登る重さPの固体を動かすのに必要な水平方向の力Fは次式で与えられると示した.
F > P tan ?
 それから,彼は摩擦抵抗の原因として連鎖凹凸のモデルを採用し,アモントンの仮説に基づいて、凹凸の傾斜は19°29'でなければならないと指摘した。一方,ビルフィンガーの仮説(レオナルドの観察と明らかに一致するもの)では14°28’であった.さらに,図8.21(a)に示すように,固体の斜面(?)のある側の表面が小さな三角形の凹凸によって覆われていることを提案した.上記の議論の単純な拡張はある結論を導いた.もし摩擦が他ともしもの凹凸の上で固体を持ち上げるのに必要な力ならば,「摩擦は圧力であり,?は1である」.
? = tan ?
 eや?,iなどの文字が数学において一般的に使用されるようになったのはオイラーによっている.また,摩擦係数としての?という記号も彼によってトライボロジーの分野に導入されたというのが上記の引用から見て取れる.しかし後者の記号は,当時は使用されなかった.
 おそらく,彼の研究の主な重要性は,彼が静摩擦と動摩擦の区別をはっきり示したことである.ブロックと斜面間の摩擦による斜面を下る運動の分析は,以下の通り図8.21にまとめられる.
 重さPのブロックが傾斜?の斜面の点Aから点Mの距離sを移動したときの全位置エネルギー損失は
PS sina
 ブロックが点?に到達したとき速度vになるなら,得られる運動エネルギーは,
Pv^2/2g
一方,摩擦抵抗によって失われるエネルギーは
msP cosa
よって,
s sina = v^2/2g + ms cosa
また,
m= tana - v^2/(2gs cosa)
ゆえに,加速度は一定であるため,静止位置からの時間t経過したときの速度は次のように与えられる.
v = 2s/t
よって,
m = tana - 2s/(gt^2 cosa?
 平面が静的つり合いの限界まで傾き,角度が最小限増加するならば,物体は非常に小さな速度で運動するだろうとオイラーは主張した.しかしながら,彼は実験によりこれが本当ではなく,一度平衡が崩れたならば物体は速く動いたことを発見した.彼は,動摩擦は静摩擦より小さくなければならないと結論した.
 オイラーの二つ目の論文は軸の場合での摩擦抵抗の削減に関連していて,そしてその後の論文??????においてロープで包まれた軸の力のつり合いにおける摩擦の役割を分析した.彼の研究は,主に三つの点で重要である.一つは摩擦へのはっきりした分析的アプローチを発展させたこと,一つは「摩擦係数」の有名な記号?を導入したこと,もう一つは静的な研究から動摩擦への移行を記録したことである.

????粘性と粘性流れ
摩擦に関する科学的研究(磨耗の最も適切な観察や滑り軸受けところがり軸受けの驚くべき発達)は,あまりにトライボロジーの??世紀と??世紀初期での歴史を占めているので,潤滑の問題を持ち出すのはいくらか不適切であるように思われるかもしれない.当時の摩擦の研究に競り合う潤滑の科学的研究に直接関連するものはなかったが,潤滑の重要性が十分な重要性が認められたことは明白なようだ.しかしながら,アイザック・ニュートン卿の、オズボーン.レイノルズによって約???年後に発達した流体膜潤滑の基礎の研究がここに記録されているため,この章へ入ることは?正当化される.
 アイザック・ニュートン卿(図8.22)は,1642年のクリスマスにリンカーンシャーのウールスソープに生まれた.ガリレオは同じ年に死亡し,ライプニッツはそれより四年後に生まれている.ニュートンの父(継父バルバナ・スミスによると,野生的で,贅沢で,弱い男と記述されている)はアイザックが生まれる前に死亡し,母は二年後に再婚している.
 ニュートンは最初,二つの村の学校に通い,読み書きと算数を学んだが,12才とき,近くの町グランサムのキングス・スクールに入学した.そのすぐ後に継父が他界し,16才になったころ,母親によってウールスソープ村に呼び返されて農場の経営に携わることになった.農場主として目覚しい成功を収めたわけでなく,すぐに学校に戻って大学入学の準備に取りかかった.1661年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学し,数学のルーカシアン教授であるアイザック・バローと知り合いになった.
 通常の試験ではすぐれた成績を残せなかったニュートンは,大疫病の年である1665年に学士の学位を得たが,抜きん出た存在ではなかった.この大疫病は1348年以来間欠的に襲来して,人々を薙ぎ倒していった腺ペストの最悪で最後のものであった.大学は封鎖され,ニュートンはウールスソープ村の農場に帰って,二年間をそこで過ごした.この隔離期間中に,ニュートンは微分と積分を考え出し,そして万有引力の法則を思いついた.
 1667年に大学に帰ったニュートンは,5ヶ月後にトリニティカレッジの一員になった.二年後に,26歳で数学の教授に就くことになった.1672年に英国学士院会員に選出されたが,その後二十年にわたって,ケンブリッジにおいて科学研究を続けることになる.この間,フックと対立し,ライプニッツとは最初友好関係にあったが,やがて微分と積分の最初の発見者は誰であったかという激烈な論争を交えるに至った.1703年に英国学士院の長に選任されるに先立って,王立造幣局の監事に,続いてその長官に任命されている.1702年には,アン女王によってナイトに叙せられている.ニュートンは,1727年3月20日ケンジントンにおいて死去,ウェストミンスター寺院に葬られた.
 我々が関心のあるニュートンの研究の一部は,彼の「プリンピキア(自然哲学の数学的諸原理)」(1687年)に含まれている.空前の最も素晴らしい科学的な作品のひとつであるプリンキピアは,1729年にモットによってラテン語から英語に翻訳され,1934年にカジョリによって修正と歴史的な解釈の追加を施され,1966年に紙表紙版が出版された.
 「流体の円運動」に関連したプリンキピアの二巻の四章は,現在,ニュートンの粘性流れの法則と呼ばれている記述が「仮説」として冒頭に示されている.その仮説とは,「流体内部において,滑らかさが欠除することによって生じてくる抵抗は,他の条件が等しければ,流体の各エレメントが互いに分離する速度に比例する」というものである.「滑らかさの欠除」といういい方は,現在では内部摩擦または粘性と言い換えることができるであろう.だが重要なのは,ニュートンがそうした用語を使わなかったことである.滑らかさという言葉が近年になって論争と議論の対象になったのは興味深い.二十世紀的な理解に一致するような,流体と境界摩擦を制御する物理的,化学的機構の正確な定義を行うことができなかったのがその理由であるのは明らかである.
 粘性という言葉も重要なので,ここで触れておこう.ヤドリギの液果には,ヴィシン(viscin)という非常に粘着しやすい物質が含まれていて,これが鳥もちの主成分になっている.鳥を捕らえるために枝の上にのばす粘着性物質として,後者は伝統的に使われた.ヤドリギを表すギリシャ語「エイコス」から古いフランス語「ヴィスコシテ」を経て「粘性(viscosity)」という言葉が生まれた.
 「粘性のある(viscous)」という形容詞の最初の使用記録は1400年(ランフランクのCirurg)までさかのぼり,「粘性(viscosity)」という名詞は1425年(ArderneのTreatise on Fistula)に記録されている.このようにこの語の早期の使用は,むしろ不快な粘着する体液の医療文献での記述に関係していると思われる.流体に関連した物理学における使用は,十八世紀以前(ひょっとすると1707年という早い時期も含む)にはなかったが,1786年までに,流体抵抗(粘性)における温度の影響で有名な軍事水力学エンジニアのBuat伯爵(1734-1809)の書物の中に確かにある.しかしながら,150年間は,ニュートンの有名な仮説とナビエ(1785-1836)の運動方程式への粘性係数の導入を分離するものであった.
 完結へ向けて,流体の円運動と重要な仮説に関するニュートンの動機を考察する.実際,彼は天体運動の説明を求めていた.そして,彼の研究は,物体の運動(抵抗する媒体における)の彼の研究全般とSystem of the Worldの数学的言及の間に関連が見られる.彼の仮説に従った流体が,運動の中心からの距離の二乗と比例した周期的時間で,回転している球体のまわりで渦を作ることを彼の研究は示したが,木星を回っている惑星と太陽を中心に回っている惑星は軌道の半径の3/2乗の大きさの周期をもった.したがって,宇宙に充満した粘性流体の渦運動は観測された惑星の動きを十分に説明できないこと証明した.
 ニュートンの仮説に一致する流体は,ニュートン流体として知られていて,流体潤滑理論はこれに基づいて構築されている.しかしニュートンがこの粘性流れに関して何か重要な応用の道を考えていたという証拠はない.彼の研究は,天体運動の非常に広大な範囲からできている.

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後藤 大原

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